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『オミナエシ』 〜ある晴れた日に〜 「こんなところで何してる?」 新井秀平は川沿いの土手に寝ころんでいる。 太陽も完全に頂点に達していない。まだ、やや東に傾いている。そんな時間帯にネクタイを締めながらも、上着を投げ捨てて川沿いの斜面に倒れている男に誰が声をかけるだろうか。お巡りさんだって声をかけないだろう。 なぜなら、しおらしい表情をしたその青年はどう見ても就職活動中の青年だ。 声の主はちょうど秀平の真後ろのランニングロードに仁王立ちしていた。秀平の場所からランニングロードまで一メートル程度、あまり離れていない。 秀平は起きあがろうともせず、目線だけで声の主を確かめようとした。顔は見えずとも制服のスカートの中は見えた。――白だ。 「まだ、十一時にもなっていないぞ」 既に視線を無理なく真正面の空へと向けて声の主の存在を無視する。少女を相手にするほど暇ではない。暇かもしれないが、今はそういう気分ではないのだ。 「…………」 ――五分が経過した。それ以上の尋問もなく、だが、少女が去る気配もない。少女は動かず立っている。 「いつまで、ここにいる気なんだ」 寝返りを打って芝生をみつめていたが、とうとう根負けした秀平はいたたまれなくなって声を発した。それでも最後の足掻きで彼女の顔を見ることはしない。 「学校だろ」 「就活――うまくいってないのか?」 就職活動――……、約して就活……。 まさに一番聞きたくない言葉である。自分の胃がストレスそのままに躍動するのは気のせいではないだろう。 「ここで出会ったのも何かの縁だ。付き合う」 秀平が制止を言う前に少女は隣に座り込んでしまった。 背中越しに少女の視線を感じながら、秀平は黙って去るのを待った。でも、少女がもう一度立ち上がり、ここから離れる気はないようだ。 奇妙な静寂が支配する。時間にして十分程度が過ぎ去っただろう。秀平の苛ついた体内時計で計っていたので、もしかしたら五分も経過していなかったかもしれない。 たまらなくなって、 「――学校――……」 凶暴な犬が縄張りを主張するように低く唸っていた。 「学校行けよ。遅刻だろうけど」 少女は答えない。こちらを見つめているようだ。彼女は何を考えているのだろうか。このまま学校に向かうだろうか。それとも、今時の女子高生そのままに何か反論して、学校を無断欠席――さぼるのだろうか。 不意に視線を感じなくなり、何故か秀平は焦燥感にかられて振り返った。 彼女はまだ、隣にいた。 膝を抱えこみ、川を見つめている。 秀平の視線を感じたのか、少女はこちらを見た。少女はどことなく笑んでいる。 「退学届け出してきた」 嘘だろう!? 彼女に対して次の言葉も浮かばず、返す言葉もない。秀平は彼女のその瞳を重々見つめた。彼女もまた秀平のその視線から逃げようとしない。勿論、秀平は悪気があって言ったわけでもなく、単に去らせる口実のためにそれを口にしたのだ。 彼女の眼差しは秀平を試すような輝きの中に優しく、それでいて哀しそう色を浮かべている。とても彼女が嘘を話しているようには思えなかった。 「やっとこちらを向いたな」 おもむろに、少女の桜色の唇が優しく言葉を象った。 「嘘、だろー――?」 まじまじと見つめ返した。 「だから、暇なんだ」 その細い指で滑らかに髪を掬い上げる。意志の強そうな双眸、きりりとした眉宇、濡れ羽色の長髪。化粧もしていない。スカートの丈の長さ以外、今時の女子高校生にはほど遠かった。 ――この少女に何があったのだろうか。 「今日、提出したのか?」 「そうだよ」 「遅くない。撤回してこい」 いつの間にか真剣に彼女へ向き直っていた。 「何で?」 「高校ぐらい出ておいたほうがいい」 「親みたいなこと言うな。おまえも親にそう言われて、大学まで進学したクチか?」 「…………」 まさにそのクチで……。 「図星か」 「――――……」 少女が笑う。 非常におかしそうに笑っている。それでも嫌な笑い方ではなかった。少なくとも秀平はそう思った。 「それでも、おまえに関しては、親の言うとおりだぞ。俺が保証する」 「おまえに保証されてもね――」 少女はごろりと寝ころんだ。 「いいんだ。やらなきゃいけないことを見つけてしまったから」 「学校よりか? 未練はないのか?」 コクリと頷く。 「後悔は――……ない、のか」 少女は秀平が隣で見ていることも気にせずに目を閉じることを厭わなかった。 なんて無防備で――……、 彼女に感じたのは、なにか共感めいた滅多に見られない理想――……のような。一言で表すなら、憧憬に近い感情が秀平を支配する。 秀平は目を眇めた。 就職活動は想像していた以上に大変で、自分を表現することで精魂を使い、それでも痛いことを面接官に言われ、我慢に我慢を重ね笑顔を一生懸命貼り付けてきた。それでも就職先は決まらず、二月に始めた就職活動は月日を重ね、季節も巡り巡って早七ヶ月目に突入していた。 「俺は人生を賭けてまでしたいことなんて出会ったことがないな。……すごいな」 と言って、静かに流水を見つめた。 少女はもしかしたら強がっていたのかもしれない。クラス内でイジメに合っていたのかもしれない。それとも、親の転勤にあたって、この土地から離れるのかもしれない。 何があったかなんて秀平は知らない。聞く気もない。 九月の終わり、十月の初め。 また、新たな月がやって来る。 誘われるがままに見つめた。 それぞれがそれぞれの想いを抱えて。 変わらない景色、されど、そこに在る水は一瞬たりと同じものはない。少女が現れる前の水はとうになく、そこにある水は遙か上流のどこからか流れ落ちてきたもの。 「あっという間に流れていくものだな」 ドキリとして振り返ると少女は川ではなく空を見つめていた。その風に流れる雲を。 同じことを想像しているのではなく、似たようなことを想像していたことに何故か秀平は安堵しながら残念であると思った。 「気付いたら二十二にもなってた。早いよ。特に――――」 青春時代は――――、 「早い」 気恥ずかしくて、秀平には言葉に出せなかったけど振り返れば、十五歳から二十二歳の七年間なんて瞬き程度に思われる。 「そんなに早いのか?」 彼女は起き上がり、気むずかしい真面目な顔をした。 秀平はしばらく沈思黙考する。 「何気なく生きてるだけで早いんだから、何かに集中なんてしたらもっと早いんじゃないかな」 重たい口がすんなりと割れた。友人や知人にも漏らしたことのないような愚痴をこの風変わりな少女に話している。見ず知らずの他人だから話せるのか。お互い全く違う道の人生の岐路に立っているからか。自分のほうがほんの少しでも長く生きている分だけ人生の先輩として格言を並べられるからか。 「俺は、ごくありふれた高校生を演じて、大学生を演じて――……。単に川に流されていただけで、海に出て振り返ってみれば、そこに俺の足跡なんて残ってなかった。当然だ。ただ単に川に任せてきたんだから」 「……後悔しているのか」 「――――……」 大きく嘆息した。 彼女は竹を割った性格そのままに秀平の心を整理していく。巧みに分別していく様はまるで掃除人だ。 「……分からないな。別段そんなつもりもないけど、そうかもしれない」 「はっきりしないな」 「そう、はっきりしないんだ」 キャンキャン吠える犬っころがご主人様と共にランニングロードを駆け抜ける。自転車が二、三台通り過ぎていっただろうか。そろそろ暑くなり出した。 それは当然だ。最近の秋は暑いものである。 「どんなに考えても答えが出せないことか……」 少女は気が抜けたようにまた寝ころんでしまった。 「人それぞれだろ」 「人それぞれか」 秀平には一人、二人付き合ったと言える彼女がいたが、ここまで和んだ雰囲気で、会話もなしでいたことはない。一緒にいるだけで楽と感じるのは何故か――。 「参考にもならないな」 「ごもっともで」 彼女の歯に衣着せない言葉は清々しい。 煮え切らない秀平の態度とは本当に対称的だ。 「何だ?」 「…………。別に」 「別にってことないだろ?」 ほとんど聞き手に回っていた彼女が少々むくれて秀平に突っ掛かってくる。 「人の顔をじろじろと……」 「お互い様だろ」 「…………」 強く否定してくるかと思えば、意外や意外。彼女は何も言わずそっぽを向いてしまった。 「……さっきの仕返し、か……?」 彼女はぼそりと呟いた。 …………。 ――図星…………? 顔が見えなくても、その時少女がどんな表情を浮かべたのか想像できてしまった。 抑えられない気持ちが――、 「……ぷっ。――……ははははは!」 少女は秀平の大笑い振り返ったが、その顔は耳まで赤い。 「何が可笑しい!!」 秀平めがけてぽかりと手を振り下ろした。秀平はそれを防御しつつ笑い続ける。二人は昔からの知り合いのようにじゃれ合っていた。本当にごく自然に。 「……悪い悪い……」 弁明しながらも笑っているのだから、なお質が悪い。彼女は片手だけの攻撃から両手への応戦に切り替えた。 「……だってさ――……クククッ」 「だから何だってんだよーぅ!!」 微妙に回避しきれなくなって、秀平は身を縮こませて丸くなる。 「……だって――」 ――あんまりにも――……。 「――……可愛いんだもんな――……」 すると、ぽかりと落ちてくる手が止まった。 「?」 秀平が見たのは、何か言いたそうに制止してしまっている彼女の姿だ。金縛りにあったようにわなわなと……口許が震えている。 「……ひ、……卑怯だ! おまえ……」 秀平は思わず起きあがって、 「ご、ごめん!!」 何故だか考えるより早く口が動いていた。言葉は生き物のように勝手に飛び出して。 少女の頬は見る間に一層膨れ上がり、 「ふ、不意打ちの上に……、先手なんて……!」 何故か少女の眼はどんどん潤んでいった。 ど、どうしよう……。 秀平の感想はそれに尽きる。何故かおろおろと周囲を見渡した。これではまるで自分が彼女を泣かしているようではないか。 こんなところで対面を気にするところが秀平が秀平である所以なのだろうが……。 とうとう俯いてしまった彼女へ怖ず怖ずと手を伸ばす。そして、彼女の肩を引き寄せ、自分の胸に押しつけるように抱く。その思った以上に華奢な背を優しく叩いてやる。 「よ、よく分かんないけど……」 秀平自身こんな真似をするのは初めてで、後からよくよく考えてみたらどう考えても血迷った行動であり、 「ごめん」 的はずれな慰めであった。 「…………」 「?」 少女は秀平の胸の中で肩を揺らしている。 「…………!?」 その最中、チリリンと自転車のベルが鳴った。 「ご、ごめん!」 彼女からばっと手を離して、仰け反る。今度こそ秀平は謝罪対象正しく声を張り上げていた。情けない話だが自分は無実だと。 だって、そうじゃないか。これではまるで……。 でも、彼女は秀平から離れなかった。秀平の胸倉をしかと掴んで未だ肩を振るわせている。 泣いているのではなく、実際は笑いを堪えているのだが、気が動転している秀平には気が付く余裕はない。 修平が一人、途方に暮れていると、少女は不意に手を離しランニングロードへ向かった。彼女は秀平に背を向けている。 「ありがとう」 「…………」 振り返る。それは突然のことだった。 「楽しかった」 少女は目を細めて笑っている。空を見上げて――。 「今日のこと忘れない」 そう風に言葉を乗せた。 「うん」 「また……」 「うん」 「――……どこかで、出会うことがあったら――……」 少女は秀平に目線を落とした。秀平もその視線を受け止めてふわりと微笑い返した。 「うん」 「お互い声かけような!」 「うん」 「絶対だぞ!」 「指切りでもするか?」 二人、目を見合わせ堰を切ったように大声で笑う。 「流行らないよ。そんなの」 「そうか? それじゃどうすればいい?」 「……前、……――名前、教えてよ」 「ああ――」 そう言えば、名前さえ名乗り合っていなかった。 「新井――、――新井秀平」 「あらいしゅうへい?」 「『新』しい井戸の『井』に、優秀の『秀』に『平』ら」 「――新井秀平」 彼女は考えながらゆっくりと発音する。合点いったらしく彼女はひたとこちらを見た。 「長久晴香――『長』いに『久』しい、天気の『晴』れに『香』る」 そこまで一気に喋って、にっこりと微笑む。 「それで、ながくはるか」 「それじゃ、晴香」 秀平は思い切って彼女の下の名前で呼んでみた。 「またな」 「うん、またな」 晴香は怒る風もなく、そう呼ぶのが当然だとばかりに頷く。 彼女は振り返らない。遠ざかっていく。 秀平は見えなくなるまでその場で見送った。 晴香はその歩みの途中、一度も足を止めることなく去っていった。 吹く風に想いを寄せる。 ――また、会うことがあったら……。 川も空もその流れを止めることなく変わっていく。 一度、目を閉じ、立ち上がる。 行くべきところに秀平も行かなければならない。 ――そして、季節はめぐりめぐる。 偶然は偶然で過ぎ去り、結局あれから秀平が長久晴香に出会うことはなかった。 「…………」 (――……二年後の今日、ここで俺は一人ふて腐れていたんだ……) まるで子供のように。 あの日、寝ころんだ川沿いを秀平は通る度にそこから見える景色を眺めていた。 偶然が偶然である限り、人間はそれ唯一つに囚われているわけにはいかない。こだわってなどいられないのだ。 無論、秀平も例外ではない。 現在、秀平は大学院に籍を置いている。あの後、就職活動を諦め、院に進むことを選択した。幸いにも秀平はそれなりに勉強も出来たので、すんなりと大学院の試験を突破することは出来た。就職を先伸ばしして学生生活最後の猶予期間を延長して今がある。 ――でも、それも終わりが近い……。 あの時と同じ日々が――……、 「…………」 訪れることもなく――。 秀平は河川敷を映す目を細め、前を見やる。 かけ声が近づく。ランニングロードの先から列をなして高校生が走ってきた。 晴香はあのジャージの高校に通っていたのだろうか。 無表情に眼球だけを動かして、彼らの背を見送る。 「――……」 そして、秀平も歩き出した。目は地面ではなく、前を見据える。 想いを馳せるのもいいが……、 立ち止まっていられないのも事実だから――、 空を見る。 また、就職活動という時期を迎えていたが、あの時と一つだけ違うことがある。 それは会社から就職の内定をもらっていることだ。 ――あの草地に、あの時間と同じ想いで、同じ気持ちで……、 雄大な空と川を見つめて寝ころぶことはないだろう。 不意に秀平は足を止めて振り返る。 過去と割り切るには十分すぎる月日が流れていた。 お互いそれを納得して別れたと少なくとも秀平は思っている。 それでも、……ここに来てしまうのは――……。 彼女の面影を追ってしまうのは――……、 何故だろうか。 単なる記憶。 いつしか埋もれゆく地層のごとく――。 追いやられていく単なる記憶なのに――……、 奥底へと追いやることは――…… ……――できない。 秀平は現実主義者だ。 でも、偶然が必然に化ける瞬間を期待して、 ――この地を訪れてしまう。 それでも、美化されゆくあの記憶を思うとき、 「…………ッ」 秀平はギュッと唇を噛んだ。 ――追憶の彼方に彼女は、いる。 二度はない。それもまた事実。 秀平は胸にやった手を握りしめた。伏し目がちな瞳を持ち上げ踵を返した。 (――……ここに来るのも最後にしよう) ここにあの約束があるのではない、 ――その約束は秀平の中にあるのだから。 |
あとがき 大学四年の時に書いたもの(苦笑) あの頃から切羽詰まってました……。 二度とない日々を愛おしく思います。 06/8/30
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