home(フレームなし)>創作場>二次創作−小説>昇る新月 序章
昇る新月
序章 蛍火 山深い里に凛とした音色が広がる。 誰もが寝静まる時刻に合わせて、密やかに流麗とした唇から愛しむ心が紡ぎ出される。 毎夜奏でられる旋律――。 その想いはあまりにごく自然で夜の空気に溶け込んでしまう。そして、村里から決して漏れることなく、優しく包み込む音色。存在るということを気付かせないほどに自然すぎて、抱かれることを常とした山河は穏やかに眠る。 ※ 時刻にして子の時を迎えようとしていた。 「…………」 縁側に佇む彼は横笛を口許に当てている。 宿坊に戻った慶俊はそんな実弟――宗次の姿を感慨深げに見つめていた。 まるで触れれば霞のごとく消えてしまいそうな彼。存在自体が――儚げだ、と思うことはそう滅多にあることではない。 実弟は一体何を想って笛をあてがうのだろうか――。 慶俊はおもむろに彼に近づいた。 見つめる先に宗次がいる――……いや、もう彼は既に「宗次」ではないのだ。 自分がそうであったように弟もまた土にまみれた泥臭い田舎の世界しか知らないはずだ。宗次は横笛を窘めるような境遇で決して育ってはいない。 彼は……宗次では――、ない。 彼は――……、 見つめる先に実弟がいる――。 ※ 「決まりましたよ」 不意に音は止んだ。 慶俊を見上げてくる双眸。ひたと捉えて慶俊を離さないその瞳に――光は、宿っていない。それでも、まるで見えているかのごとく、寸分違えることなく瞳は慶俊を捉える。 そんな彼の視線を慶俊は怯むことなく受け止めた。 「――――」 最後に彼と会ったのはいつだったか。 光を失っても彼独特の力強い眼差しは何一つ変わらない。それは宗次ではない証拠でもあり、彼の強さの象徴でもある。人間普通、弱気になる場面において見せる彼の強靱さ――。瞠目に値すると慶俊は思う。 だが、そんな彼に抱いた瞠目を隠して、慶俊は強いて沈着を自分に命じた。 「猪之助が渋りましたが、全会一致で決まりました」 「――――」 じっと慶俊を見つめていた彼はふいに視線を夜空へと彷徨わす。そして、膝元の横笛を握りしめる拳に自ずと力が込められた。 「……ッ――資格が、ない……」 「…………」 苦しそうに唇を引き結んで彼は何を考えるのか。一体何を持って彼は――『資格』がないと言うのか――。慶俊も彼が見上げる空へと視線をやった。 初雪が降って以降、曇りがちであった空は幾万の星々と――、弓ほどに細い月を讃えている。 「決まり事ですから」 隙のない語調で告げた。やっとのことで吐露した彼の想いは報われない。いや、その前に敢えて報おうとは慶俊はしなかった。 眉根を寄せて、俯く彼。 実弟の身体を奪った――そんな彼を、慶俊はただ静かに見つめた。 生きること自体が罪――ならば、人の営みに溶け込む資格など――……。 「――――そんな大役――……を」 彼は縋るように顔を上げた。彼の許されざる罪と業を知り、解する慶俊だからこそ、強いて感情を抑え込む。 「あなたは――」 その時ばかりはいつもの穏やかな眼差しではなく、厳格な眼差しを慶俊は彼に注いだ。 「――生きている」 「――――!」 突かれるように振り向く彼は揺れる瞳を慶俊へ向けて。 「それでは資格になりませんか」 交わる視線が真実を告げる。 歳月が慶俊にとって彼を、弟を奪った単なる略奪者とはさせなかった。 感受性の強い敏感な彼はほんの少しの偽りも見逃さない。その瞳は鋭く慶俊の瞳を射抜く。負けじとそんな彼を慶俊は真摯に見つめ返した。 視線から逃げたのは、――宗次だ。わざと視線から反らし、空へとこうべをめぐらす。 彼は何を想うのか――……。 「いいえ、あなたは生きるべきです」 そんな彼に追い打ちをかける言葉を浴びせた。 断言する慶俊の言葉には力がある。宗次の瞳に映る慶俊は稀人が放つ気炎を背負う。若くして田舎の寺ではあるが住職に抜擢されただけのことはある。 ――黄泉返りであっても今ある命の灯火は等しく、生き人と同じ――。 慶俊はいつしかそう考えるようになっていた。 弟の分も――。誠実に生を受け止める義務が彼にはある。 「――――……」 そして、それが彼が背負うべき現世での業だ。 それを理解しない彼ではないからこそ――。 唇を強く噛み締める弟。月を仰ぐ瞳は切なく、おもむろに横笛を口許に当てた。 ――耳を澄ませる。 奏でる音色はあくまで優しく、――暖かい。されど、もの悲しくなるほどに凛とした旋律は、 蛍火のごとく――、 仰ぎ見たその果ての――冬の夜空に、 ――舞う。 〈了〉序章 蛍火 第一章に続く |
home(フレームなし)>創作場>二次創作−小説>昇る新月 序章