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昇る新月
第一章 日常 「景虎様――……」 直江信綱はふいに立ち止まった。 天下の江戸の町は仲冬にさしかかっても相も変わらずその喧噪は変わらない。 罪や罰には連帯責任があれど、一度町に繰り出してみれば誰もが他人に無関心な城下町――それが江戸である。 無感情に周囲を見渡した。 直江の独り言に応える者は無論おらず、その名の意味を知る人物もいない。とうの昔に時代に埋もれたその名の意味を、彼が込めた真の意味を――……この異国の地では、当然のごとく知る者はいない。 それでも己は――……、 「…………」 ――彼のいないこの町に留まっている。 胸の内にわだかまる空気を大きく吐き出して、行く先を見やった。 その先には町人たちが溢れかえっている。 一歩を踏み出す。 人混みに身を置き紛れて、直江は家路へと着いた。 ※ 「ただいま戻りました」 作法に従って礼儀正しく障子を開けて部屋へと直江は参じた。 「おお、帰ったか。千歳」 迎え入れたのは、今生、直江の宿体である柳沢千歳の父――孝則である。 「こちらで宜しいのでしょうか」 と言って直江は風呂敷の包みを開けた。今しがた質屋から引き出してきた品物である。 「ああ、これで間違いない。ご苦労だった」 孝則はその包みの中身――女物の着物を手に取り満足そうに箪笥へとしまい込む。今年、弥生に死んだ女房――お美千の着物だ。病に倒れたお美千の薬を手に入れるために多くの物を質屋に入れた。この着物もその一つである。そして、やっと質屋からそれを取り出すことができて柳沢家では晴れて質屋に預けている物はなくなったはずなのである。 「少ないが、これは駄賃だ」 「――……父上」 直江は手のひらに押しつけられた数枚の銅貨を懐に収めるのではなく、孝則の前に置いた。 「受け取れません」 感情なく告げた直江の前に孝則は何喰わぬ顔をして腕を組んでいる。 「おまえだって少しはないと、遊べないだろう?」 「――――……」 「これはそれなりの報酬だとわしは思うが」 「…………。家計が苦しいことは父上も十分承知でしょう」 「それなら心配ない。これはわしの懐からだしたものだ。心配無用」 そんな金があるならば……と言いたいところだが、直江は沈黙を守った。 「…………」 「それでも受けとれんのか……?」 無論、その駄賃には裏がある。その証拠に直江から先に視線を逸らしたのは孝則の方だ。 「受け取ってもらわんと困るんだがなぁ」 と言って頬を掻いて逸らされた視線の先を直江もさりげなく眺めると、縁側には一人の男が立っている。直江もよく知る気配だ。 「古屋殿と――……」 にやりと笑った孝則は千歳の受け取ろうとしない頑な手を取り、再び銅貨を押しつけた。 「千歳は本当に話が早い。そういう訳だから受け取れ」 「父上!!」 「千歳、孝幸にはくれぐれも内密に、な」 悪戯な笑みとも威圧とも区別がつかない表情を息子に投げて立ち上がる。 孝幸とは千歳の兄で、長男の彼は孝則の代わりに道場を仕切っている。勿論、この家の大黒柱だ。直江は父と兄の間で板挟みだ。 「千歳、お前も遊べ!」 孝則は立ち上がりかけた息子を目で制し、そそくさと悪友である古屋の元へと急ぐ。 取り残された直江は――……。 「まったく……」 唖然と額に手を押し当てた。今更ながら、母――お美千の苦労が身に染みる。女好き、酒好きのろくでなしの父だが、それでも女房の墓参りを欠かしたことのない孝則だった。だから、お美千の死は応えていると思っていたのだが……。 そうではなかったのか――? 「――困った人だ」 と直江は嘆息した。 そうして孝則が去った後、直江が向かった先は、敷地内にある道場であった。 「千歳」 呼び止められて、直江は振り返った。 「兄さん」 真冬だというのに上半身裸の兄・孝幸が井戸の前に立っていた。固く絞った手ぬぐいで汗を拭い、それを肩にかけている。 「もう稽古は終わってしまいましたか」 「ああ。親父の使いは終わったのか?」 「ええ」 「それで親父は?」 「…………」 さすがの直江も一瞬沈黙してしまったが……。 いつもの所に向かいました、とだけ告げた。 「――墓参りか。ご苦労だったな」 兄の言うことも間違っていないのだが、それとは少し違うことを直江はおくびにも出さない。 「いいえ。兄さんこそお疲れ様です。後はやっておきますから気にせずあがってください」 稽古後、通う門下生が道場の掃除はすることになっているのだが、無骨な男たちの集団だけあって隅々とはいかない。だから、直江がこの家に戻ってきてからは、いつの間にかその最後の仕上げが直江の仕事となっていた。 「ああ、そうさせてもらう」 と孝幸は苦笑を浮かべて、直江とすれ違うが、 「千歳」 「何です?」 ふいに肩越しに孝幸は道場に向かおうとする弟を呼び止めた。 「――――。たまには相手しろ」 冗談めかした物言いにもかかわらず、孝幸の眼は言外にモノを言っている。 「――――」 ――逃げるな。 その意味は決して一つではない。言葉そのままの意味ではなく――。 ふいに孝幸と交わった視線を和らげ、直江は掴み所のない微笑を浮かべた。 「――――……。では――明日、で。構いませんか?」 孝幸は片眉を跳ね上げる。そういうことを言っているのではないのだ、と顔には書いてある。兄が言いたいことは稽古のことではない――……。そういうことではない。それを知っていて直江は敢えてそう返答した。 しかし、こういう風な答え方をする弟が梃子でも返答を変えないことも孝幸はよく知っている。 「分かった。明日――覚悟しておけ」 孝幸は弟の返答を待たずして母屋へと向き直ったので直江も道場へと再び歩き出した。 二人の間に木枯らしが駆け抜けていく。晴れた陽気、冴えた太陽――。 孝幸は垣根のところまで来て立ち止まった。そこには出かけたはずの孝則がいる。 「父上、出かけたのでは――」 孝則は口許に人差し指を当てて見せた。どうやらずっと前からそこにいたようだ。孝幸も孝則の視線を追って振り返った。その先には――。 千歳――が、 ――空を見上げていた。 「気に、かかってな」 燦々と輝きながらもまるで暖かみのない太陽。 千歳は険しく睨み付けている。 「――――……」 「千歳の様子は? 落ち着いたようでもあるが――……」 「…………」 心ここにあらずなのは、――相変わらずのようで。 孝幸は嘆息した。 決して家族には見せない表情を空へ投げて、何を想うのか――。 「只の――……痩せ我慢ですよ」 孝幸は弟が見やる空へと視線を移す。 襷を加えて――千歳は見つめている。その無表情にも見えるその顔は――、 「それ以外の、なにものでもありませんよ――」 〈了〉第一章 日常 第二章に続く |
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