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昇る新月

第二章 枷鎖

 
 襷を身体に回す。
 そうやって――……今にも抑えきれない衝動を無理矢理縛り付ける。彼のいない……――この地に、己を繋ぎ止めるために。
 彼がいないと知りながらも、この地に自らを縛り付けて――、
 己は何をしているのだろう。
 いない、と知っていて……。

「……――――ッ」

 何故、己は――……どうして、この地に留まっていられるのだろうか。
 冷え切った太陽の下――、
 苦しく眉を引き絞り、瞳を閉じた。
 繋ぎ止めるものがあるとしたら――――。
 それは一重に、

(――景虎様……!!)

 ――あなたの言葉だ。

 見開いた瞳は、彼の地へと繋がった限りなく広がる青空を捉えていた。

       ※
 
《景虎様――!!》

 考えるより先に思念を飛ばしていた。
 稽古中だということも忘れてその場に立ちつくして――……、

「…………」

 今のは一体何なのか――。
 例えるなら――吹き寄せる爆風。押し寄せてきた力は紛れもなく調伏力だ。それもその爆心地は遙か西方のはず――なのに、江戸くんだり直江の元までその余波は思いがけない大きさで届いた。自然と察知できるその巨大な力は――!?

《応えてください! 景虎様!!》

 あれほどの調伏力を持ち合わせているのは夜叉衆五人の中でも、たった一人しか知らない。

《何があったのですか!? 景虎様――ッ!!》

 そうでなくても直江がその波動の主を間違えたことは一度たりとも、ない。
 あれは――上杉景虎の、ものだ……。

「…………ッ」

 景虎の身に何かが起きたとなれば、いてもたってもいられないのが直江である。

《返事をしてください!! 景虎様ッ!!》

 波動の余韻は胸に大きくのしかかり、不安が混沌を広げていく。
 まさか――……!!
 最悪の事態を想像して思わず直江は首を左右に振った。

(あるはずが、――ない。彼が死ぬなど――……。あってなるものか……!)

 そう思っても不安を取り除けないのは、今生の彼が、目の不自由な身体であり、その身体であれだけの調伏力の解放をすれば、どうなるかは想像できないからだ。加えて行使したのは間違いなく結界調伏法で、調伏法の中でもとりわけ酷く体力を消耗する。

《景虎様!!》

 道場の真ん中で突然、立ちつくしてしまった自分が注目されていることなど構ってはいられない。直江は我を忘れて幾度となく、彼へと呼びかけた。
 しかし、あれから三ヶ月。日がな一日思念波を送り続けていた直江もとうとう思念波を送るのをやめた。

「…………」

 今はこうして兄の孝幸の指示に従って、家の手伝いをしている。
 直江は床板の目に沿って動かしていた手を止めた。その手がもつ雑巾は薄汚れている。
 結局、直江の必至の思念波は空の藻屑となって消えた。果たしてあの思念波が彼の元まで届いていたのだろうか。――今となってはそのことすら分からない。一つだけ言えることがあるとしたら――、
 その思念に応える者が誰一人いなかった、――事実である。

「――――……」

 一体、今、彼は何をしているのだろうか。
 直江にはそれすら知る術がない。

(俺は一体何をしているんだ――?)

 こんなところで、こんな雑巾がけをするために、俺はこの身体に換生したのか。俺は――あの方を守るために換生した、のではないか。俺の役目は彼を――……。

 ――――ッ

 彼に嫌がられようと、何しようと彼の傍から離れるべきではなかった。今更ながら後悔が押し寄せてくる。
 何故にあの時、あの言葉に俺は従ったんだろう――?
 純粋な叱責が支配した瞳。すんなりと肯けたのは人間を愛する彼の真の心がそこにあったからだ。だけど――、
 俺は離れてはいけなかった……。離れるべきではなかったのに――ッ。
 俺は少なくとも離れたくは、なかった。――いや、本当にそうだったのだろうか……? そう言い切れるだろうか。彼が前にして苦痛と感じたことがなかったと言えただろうか。何故彼を守りたい、など――……。

 ――分からない。

 自分の感情がどこにあるのか分からない。それでも――、
 握る雑巾に皺が寄る。

 ――それでも、俺は彼の元に行かねばならないのだ。

 その一念が今の直江を動かしていた。けれど――、

「…………」

 それなのに何故……、今にも飛び出したいというのに、この地に留まってしまうのだろうか――? それも直江には分からなかった。
 苛立ちが直江に力を込めて板の間を擦らせる。どうにもならない衝動を抱えて――、

「相変わらず、地べたが似合うな。直江信綱」
「!?」

 はっと振り返った。
 聞き覚えのある声ではなかった。けれど、全く知らない気配ではない。尚かつ直江という原名を知る人物――。
 口角が逆光の中で浮き上がる。それでいてその挑戦的な眼差しは――、

「――高坂……弾正……!?」

 かつて上杉謙信や北条氏康と共に関東の支配権をめぐって争った三雄の一人、武田信玄。その家臣――高坂弾正忠昌信が戸口に立っていた。

「久しいな」

 とだけ言って高坂は無遠慮に道場へと上がり込んでくる。

「――何しにきた……?」

 そんな高坂の行動を注意深く窺いながら、立ち上がった直江は低く唸った。
 この高坂という人物、どこか超然としている上、どうにも行動が不可解で信用がならない。

「別に、近くに来たから覗いてみたまでよ。それとも何か、貴様は私が何かするとでも思うているのか……?」

 嘲笑をもって、問いを問いで返す高坂。

「ふん、安心するがいい。お屋形様が封じられた今、夜叉衆を敵に回すのは得策でないからな。上杉の」
「…………」

 本当にそう思っているのか読みとれない笑みを象って高坂は一歩前に踏み出た。

「毎日あれほど煩く飛んでいた思念波がぷつりと止んだので――……」

 顎を引いた高坂は直江に淀みない視線をよこし、直江の脇を通り過ぎて壁にかかる木刀の前に立った。――殺気は、ない。
 高坂は直江の行動を全て見透かしていると言わんばかりに余裕の流し目を肩越しによこして、

「……――どうしたものか、と思って」

 ふっと笑った。

「まさかこのようなところで床を磨いておろうとは。さすが吠えるだけしか脳のない犬だ」

 投げてよこすはあの――含みのある笑み。無性に癇に障るのだが、高坂は事実を述べているに過ぎないことも直江は分かっている。

「…………。――何が言いたい……」

 ここで冷静さを失ってはこの男の思う壺である。直江は強いて冷静を自分に強いて応えた。しかし、男はお構いなしだ。


「――ふん。それも分からぬバカ犬か? 貴様は」
「なんだと」

 高坂はいかにも馬鹿にした溜息を付く。

「これだから貴様は甘いというんだ。そんな呑気なことを言っておるから逃げられるのだ。心の中ではいつでも犯しているくせに――肝心な時には、その現場にいない。哀れだな」「!?」

 直江は明らかに動揺した。
 どうして!? と直江の顔に書いてある。それを目の前の男は引き継いで――、

「ふん。貴様の考えていることなどお見通しだ。ばれていないとでも思うておったのか?」
「――――ッ」

 勿論、そのような想念を直江は未だかつて誰にも話したことはない。ましてその想いを飼い慣らすのに手一杯な直江だ。

「無能なうえに主人を主人とも思わぬ貴様を飼うのだから、景虎ぎみもさぞや大変だろうよ。それとも、景虎ぎみは余程鈍感であらされるか? 貴様が欲情した駄犬と知ったならば――」
「高坂……! 貴様……、景虎様を愚弄――……」
「誉めておるのよ。鈍いにせよ器が広いではないか、貴様のような奴を側近に置くのだから。さすが謙信公から上杉軍を預かるだけのことがあるというもの」

 さも心外そうにわざとらしく両手を挙げ、こちらに振り向いた高坂は壁に背を預け腕を組む。そうして図星か、と高坂は目で訴えてくるので直江は黙るしかない。

「…………」
「まぁ、従う以外、能のない犬どもに囲まれて景虎ぎみも良くやっておる。あの統率力、度胸は大したものだ」

 しばらくして窺うのとは打って変わって高坂は独り言のように呟いた。そして、窓枠から流れ込む日差しを眇めやり、

「――しかし、景虎ぎみの今回の決断――愚かとも取れたが、それでこそ大将の器なのだろうな」

 勝つために自ら戦陣を切るその勇ましさ。それは高坂が知るあの川中島で謙信の隣にぴたりと佇んでいた三郎景虎からは想像の付かない姿だった。

「己を犠牲にしてでも調伏を断行する強い意志、そうは真似できまい。しかし、己なき後を任せる相手が貴様らなど、景虎ぎみもさぞ心配で悠長にしておれまい。まさかこの能なし共に任せるとはな。景虎ぎみも大胆なことをする」

「…………――な……、んだと……?」

 ――己を犠牲――……。
 ――私たちに……? 任せる――……だ、と!?
 ――己なき後を――!?

「高坂! 今何と言った!? 景虎様亡きあとだと!?」

 思わず直江は高坂の胸ぐらを引き寄せていた。その目は血走っている。

 ――己亡き――景虎様亡き……後――、だと……?
 ――己を犠牲にして――!?
 
「一体どういうことだ!? 答えろ! 高坂!!」

 その切羽詰まった視線を受けて、

「ほほう。貴様何も知らぬのか?」

 高坂は声を低めて問い返した。

「…………」

 静寂の中の張りつめた緊張。間近にぶつかり合った瞳。許し難い事実。

「…………くっくっくっ――これは愉快! 貴様、除け者にされたな!」
「――――……ッ」

 押し隠すこともなく笑い放つ高坂。一人合点がいった高坂は直江に構わず笑い続ける。

「そうか、知らぬのか。くっくっくっ……景虎ぎみも味な真似をする」
「――高坂!! 一体――……」

 とうとう暴力に走ろうとした直江の手首を高坂は捉えると、されるがままに握られていた襟元から直江を引きはがした。

「間違えるな。直江信綱」

 直江から離れた高坂はさも不愉快そうに襟裾を直し、視線を流してきた。その口許にはまだ笑みがある。しかし――、

「聞く相手は私ではなかろう」
「――――!」

 敵に聞く前に味方に尋ねるべきで、まして目の前の男に尋ねるべき事ではない。特に想像が真実であるならば。胸ぐらを掴んでいた手が行き場を失いおもむろに握り込まれる。全ての疑問を凝縮させて震える拳。
 そんな直江に目をくれることもなく――、高坂は出口へと向かった。
 外は道場と違って明るい。
 眩しさに目を細めて高坂は僅かに手をかざした。逆光の中でその背は――、
 
「どうやら――景虎ぎみは――……」

 僅かに振り返って、

「――安田長秀を選んだようだな」
「!!」

 直江を見る高坂の眼は――窺う、というのとは違う。確かに直江の反応を窺っているのではあるが、その反応を楽しんで、いるのでもなく――。
 ――単に、見ていた。
 戸枠に触れる手が離れる。音もなく影が光に晒され消えゆくように突然現れた男は消えた。
 残された直江は――、
 残像残る一点を見つめていた。行き場を失った手を握り、言葉を飲み下し、立ちつくす他はない。

 ――安田長秀を選んだ……。

 その言葉にどれだけの衝撃を受けたのかも分からず、
 直江は、――その場に動けずにいた。

  〈了〉第二章 枷鎖 

第三章に続く


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