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昇る新月

第三章 行灯


 ざくっざくっざく……
 降り積もった雪を踏みしめ行く先を見つめた。
 笠をほんの僅かあげて、安田長秀は立ち止まる。吐く息が視界をぼやかし、すぐさま消えていく。だが、目の前に開けた視界から白い世界が消えて、見通しが良くなるわけでは決してない。むしろ、その逆だ。どんどん見通しが悪くなる一方だ。

「――――……」

 そろそろ夕闇が訪れようとしている時刻。

「一体全体……景虎もとっつぁんもどうしてこう山奥が好きかね……」

 笠から手を離して長秀は一人ごちた。
 というのも、我らが大将――上杉景虎を山寺に送り届けてから長秀は早、まる一ヶ月、休まず旅を続けてきたのである。懐に収まる景虎からの書状を色部勝長に渡すために。
 それで道が閉ざされる前に、と旅を急いだものの――結果はこの通り。今年の冬の訪れは案外早く――、
 一面――銀世界で……。
 しかし、幸い今日は雪が降ってないだけマシと言うものだった。
 長秀は大きく溜息を漏らした。

「俺は野宿はもう嫌だからな……」

 色部の住む場所へ向かうため街道を外れて山に入った。そこまでは、良かったが――……。そこまでは……!
 この寒い中、かれこれ三日間も野宿を強いられている。そろそろ暖かい寝床と食事が恋しい。もう少し相手が交通の便の良いところにいてくれれば――……と思うものの、ここまで来てしまえば、時既に遅しで。

「たくッ……」

 長秀は再び歩き始めた。
 とにもかくにも辿り着かなければ、四回目の野宿が決定である。いくら根無し草といえど、それだけはご免被りたい。
 辺りを覆う雪化粧は冬の本番到来をつげていて、行く道を塞ぎ憎々しく見えてくる。そんな事を考えてしまうのだからそろそろ野宿は本当に嫌なのだろう。

(陽が沈む前になんとか――……)

 そうして一刻も早く辿り着きたい。そのために雪を踏みしめ歩き――……。

「――――」

 長秀は口笛を吹いた。
 行く先に光――家屋がある。そして、近づくとよく知る〈気〉を感じ取ることができた。
 空はもう夕暮れ時を終わろうとしていた。半ば諦めていたが、どうやら四日目の野宿は回避できたらしい……。思わず安堵の息が漏れる。

「邪魔するぜ!」
「――ああ、寒かったろう。湯は沸いているから自由に使いなさい」
「――――……」

 長秀が戸を開けると、家の主はこちらに見向きもしないで応じる。戸口に背を向けて机に向かい、行灯の光を頼りになにやら筆を持っているようだ。
 囲炉裏の炭が弾ける音のみの世界。
 遠慮なく家屋に入ると長秀は土間に据わり、かんじきを脱ぎにかかった。

 「――…………」

 己がここを訪ねることを前もって知らせておいたが……、労いの一つもない。せっかくわざわざこんな山奥まで足を運んだというのに。
 苦労して旅を続けてきた長秀としては、少なからず面白くない。

「客が来たってのにそりゃねぇだろうに……」
「客ではないだろう? おまえは」
「!」

 小さく呟いた愚痴を間近で聞かれたのだから、長秀はぎょっとした。

「それとも道に迷ったか? 行灯は掛けておいたんだがな」

 いつの間にか書き物を終えた色部が真後ろに立っている。今まで利用していた行灯をそうっと長秀の隣りに置いて斜め後ろ辺りに座った。そうして色部は掴み所のない微笑を浮かべている。そんな態度をとられたら――……反論できないことをこの人物は無意識で知っているらしい。
 長秀はしばらく睨んでいたが、はぁ、と嘆息混じりに掛行灯の灯火を眺めた。

 たくっ、百年も生きるとみんなどこかしら狸になりやがる。それは自分もそうなのだろうが――……。

 ――……困ったものだ。

「…………」
「長秀。来た早々悪いが――」
「――――……」

 脱ぎかけのままかんじきを放置して両の手を後ろに付いた。なんだかすべてが面倒に思えてきて仕方ない。長秀は目線だけを色部のほうにじろりとやった。

「何?」
「この書状を景虎殿に届けてくれないか」
「…………」

 ついっと板の間に滑らせられたそれは今まさに認めただろう一通の手紙。行灯と長秀の間に割って入って何食わぬ顔をして佇んでいる。懐に収まる書状とそれが不意に重なる。

(俺は来たばっかりだというのに――……)

 景虎も――……、とっつぁんも――……。

「なぁ……とっつぁん。俺が何でこんな山奥まで来たと思ってんだ?」
「何って――」

 腕を組んだ色部は長秀の顔を真剣に見つめ返してきて――、

「――単なる、気まぐれだろう?」

 単なる気まぐれで雪に埋もれてまでこんな所来るかッて!

「違うのか?」

 しかし、ますますきつくなる長秀の視線の意味が色部には解らない。

「…………。おまえが私の元を訪ねるなど、それ以外に何かあるのか?」

 長秀は夜叉衆の面々とあまり馴れ合わない。呼び出されれば来るのだが、それ以外はとんと音沙汰なし。それでも、景虎の元には決して自ら訪れはしないのに、色部の所には突然、顔を見せることもある。まぁ、近くに来たからというのが主な理由で、本当に顔を見せるだけか、二、三日ふらっと泊まっていくだけである。
 まさか、自分の元に景虎から書状を預かって長秀が現れるとは、色部は頭の隅にもない。

「二、三日もすればここを立つのだろう? それなれば、この書状を景虎殿に届けてくれまいか? 最近、おまえ、彼にに会っておらんだろう」

 理由がなければ会えないというなら良い口実になる、と言って色部はまた、あの穏和な微笑を浮かべた。まるで今すぐ行けと言っているように長秀には見える……。

(一体全体――……)

 景虎も――……、とっつぁんも――……。

「――……あのさ」
「何だ」
「俺が用もなくこんな雪で閉ざされかかってるところにやってくるとでも思ってんのか……!?」

 息も絶え絶え寒い思いして!?

 よっぽどの用事がなければ、こんなへんぴな何もないところにわざわざ来たりしない。まして、こんな山奥で男二人密室にいても面白くないし、どこか暖かい宿場町で女の世話になっていた方が絶対に良いに決まっている。そんなことも分からない程、このとっつぁんこと色部勝長とは短い関係ではないと思っていたのだが。

「――――」

 しかし――……、
 それもそうだな、と言って色部はまたも真剣に考えだしてしまう。
 そんな色部を尻目に長秀も仰のいていた身体を起こして、膝に肘をついて頭を抱え込んだ。

(一体全体――……、景虎もとっつぁんも――……)

 視線だけをじろりと色部へと向けると、未だ真剣に悩む男が佇んでいる。

「…………」

 俺を――……、俺を――……! 何だと思ってんだ……!?
 体の良い使い走りでもなんでもないぞ! ましてそこまで暇ではないし、断じてそうであってたまるかッ!
 しかし、このままいつまで待っても色部は答えに辿り着きそうにない……。これでは埒が明かない。長秀は仕方なく――、

「……ほらよ」

 長秀は懐から一通の書状を色部の胸元に付きだした。頬杖を付きながらそっぽを向いて片手だけを差し出して。
 戸口に長秀の手から伸びて淡くはためく影――。照らされる書体。
 色部が息を飲む。

「――景虎からだ」
「――景虎殿? から――……」

 ちらりと窺うと案の定、受け取りもしないで色部はその書状に視線を落としたままだ。長秀に託された景虎からの書状――それだけでその内容を悟ったに違いない。けれど、長秀の視線に気が付いたのか、色部はしかとその書状を受け取り懐に納めた。
 そして――、

「ああ、そうか。すまなかったな」
「ふん。たくッ俺だってたまにはアイツと行動するさ」

 まー、あっちに呼び出されたんだけどな、と付け加えると色部もしたり顔に戻り、

「そう言うな。こちらは助かった」
「ふぅん?」

 ま、俺にとってはどうでも良いことだ。

「それより腹減ったんだけど、何かあるか?」
「ああ、そろそろ来る頃だと思ってな」

 と言って魚の刺さる囲炉裏を指さすこの家の主。
 まったくこういった事だけは感が良いと長秀は肩を竦め、

「んじゃ、ま、お邪魔しますか」

 とっくに邪魔しているだろう……と色部は微苦笑を浮かべ、
 二人は行灯を持って土間からやっと立ち上がった。

        ※
 
「まさか……、そんなことが――」

 ――有り得るのか……。

「…………」

 行灯だけの明かりというのは非常に暗いものだ。
 静かな返答の中に驚きの色がある。長秀は徳利を傾けた。
 三月ほど前、長秀は景虎に呼び出され、その出向いた村で朝鮮征伐の怨霊群とその親玉である生き霊を相手に二人がかりで調伏を行使した話を色部に語って聞かせた。
 安田長秀が到着するまで、その膨大な怨霊群を上杉景虎は――……、

「――……一人で、押さえ込んでいたというのか……」
「――……ああ」

 全く人間業ではない。それに付け加えて、その怨霊群を調伏したのも景虎だ。己はほんの少し肩代わりしたに過ぎなかった。口惜しいが上杉景虎だからできた仕業だ。
 色部は額に手を当てた。

「……それで、景虎殿は結界調伏法を行ったのか……?」
「まぁな」

 それ以外にあの怨霊群を倒す方法はなかった。夜叉衆の面々が束になっても敵わなかったかもしれない。あの場にそれを為すことができるのはアイツしかいなかった。だから――奴はやった。たとえそれがどんな代償と引き替えであろうと――。

「何故そうなる前に我々を呼ばなかった……」
「そう言うな、とっつぁん。呼んでいる時間も暇もなかった。アイツだって必要あらば、あんたたちを呼んでいたさ」

 色部たちを待っていたら間違いなく手遅れだった。もしも景虎の呼びかけに応えず長秀が現れなくても、彼は一人で調伏を行使していたに違いない。だから、実際、あの場の周辺近くに安田長秀がいたことは不幸中の幸いだったのだろう。

「それに――、あの力場に踏み込めたのは」

 ――俺と景虎の二人、だけだ。

 調伏の地となったのは、特殊な土地だった。耳塚ということもあいまって実生活で最も頼っている五感の一つを失ってしまう非常に特殊な力場。大体の人間は特に視覚が欠如してしまう。あの場に踏み込めたのは、元々目の不自由な景虎と彼と難なく霊波同調できる長秀だけであった。

「――……しかし」

 今生の彼は目が不自由で、身体に負担のかかる調伏を行使すれば失明すると宣告したのは、他でもなくこの色部勝長自身だ。そして、その調伏法を行ったということは――。

「心配するこたぁない。とっつぁん」
「!」
「アイツは全部の視力を失っちゃいない」

 その寿命の針を極端に進めたかもしれないが、全ての視力を失ったわけではない。単に総大将という任をこなせるだけの視力が残らなかっただけのこと。

「――。……そうか」

 そう言って色部はお猪口に視線を落とした。
 無論、長秀から受け取った書状はその旨が記されており、今生の指揮を色部勝長に委譲する件が書かれている。景虎の目の不自由を知っていた色部である。遅かれ早かれこのような日が来ることを覚悟していた。そして、その日が来たまでである。

「――景虎殿が元気であるなら、それでいい」

 長秀はその言葉を肴にして、お猪口に残る酒を嚥下した。

「しかし、気にいらねぇよなー。景虎の野郎」
「? 何がだ」
「…………」

 …………。――全部が、だ。

 確かに奴がしたことは、正しい。それは言うまでもない。だが、しかし、奴はなんでもかんでも己の背一つに背負い込もうとする。今回の調伏の件だって長秀は初め何も知らされてはいなかった。それでいて結果はともかく終わってみれば景虎はあの有様だ。それに色部への委譲の件だって――――。

 ――応えてください! 景虎様!!
 ――何があったのですか!? 景虎様――ッ!!

 数週間前まで執拗に連呼された思念が蘇り、長秀は眉を寄せた。
 安否を気遣う直江の思念波は遠く景虎と長秀の元まで届いていた。けれど――その思念波は藻屑となって消え失せた。
 長秀は勿論、景虎はその思念波に取り合わなかったのだ。安否ぐらい教えてやってもいいものを。
 ……あの分では直江は景虎が戦線から退くこともまだ、知らないだろう。

 ――この場所を直江には絶対教えるな!!

「…………」

 隠れ里で別れる際の景虎の言葉だ。
 確かに思念波から知りうる直江の状態では、今の景虎の状況を直江に伝えるだけであの男はまさしく何を他置いても景虎の元へ駆けつけかねない。いや、駆けつけるだろう。それでは困るのだ。だから、景虎は直江に対し何も語らず、応えない。彼は今は全てを明かす時ではないと判断する。
 景虎にも理想の退陣、色部への継受がある。長秀もその理屈は分かる。分かる――が、しかし、

「気にいらねぇよな。不自然すぎる」
「…………」
「不自然に直江を突っぱねすぎだ」
「いつものことではないか」
「そうじゃねぇ、そうじゃねぇんだよ」

 何が違うと長秀は言いたいのだろう。
 口許にお猪口をあてがったまま、どこかしっくりこないと一点を見つめる長秀。その姿を色部は興味深く見守った。少なからず、あの長秀が他人に興味を持っている。そのことが面白い。
 安田長秀という男、初換生当初から執着というものに縁の薄い人間だった。換生者なら誰でも味わう肉体の違和感すらこの男にとっては些細なことで、細かいことを気にしない感があった。換生に対して平然としていられる神経は夜叉衆の中でもずば抜けて異質であって、ひどい時には生死にすら興味がないような有様を見せつけていた。まるで掴み所がなくおよそ執着や興味などという言葉から対極にある男。
 それでも、長秀にだって少なからず自己への執着は持ち合わせている。でなければ怨霊などになってこの世に残るはずがない。他者や世間への執着、興味がなかろうと、世間は渡っていける。だが、自己への執着はなければ、生きていけない。まして、この長い人生、換生してまでこの世に残ろうなど考えもしなかっただろう。それに決して謙信から与えられた使命だけで生きられるほど、安田長秀という男は生やさしい性格ではない。

「――――」

 温い酒が湖面をつくる。
 柳のように世間を受け止め流されて、人と馴れ合うことも深く関わることもしなければ、他者へ興味を抱くこともしない彼。けれど、人と関わってこそ、自分を認識することができ、ここに存在るということを自覚できると色部は思う。だからこそ今こうして長秀も他者を語ろうとしている。きっと本人は無自覚だろうが、長秀もまた他者に興味を、執着を抱いているのだ。永い時間の流れが彼にそのことを忘れさせただけで。

「アイツ、直江には一切の情報を伏せろって言いやがる」

 長秀はグイッと飲み干した。

「理屈は解る。だが、仮にも直江は後見人だ。直江が黙っていられると思うか」
「…………。そうだな。確かに」
「それを承知で平然と言いやがる。あの馬鹿は。直江も直江だ。あれしきのことで引き下がりやがって」

 長秀には直江の抱く景虎への思いに対して確信はないが、予感がある。その通りならば、直江は決して景虎から離れるべきではない。そして、それに対する景虎の態度も長秀には許せるものではなかった。
 始まってもいないうちから――……。

(一体何様だっての。気に入らねぇよなー、全く)

 お猪口に注いでやると、またも一気に長秀は喉に流し込んだ。
 ふむ。どうやら長秀が気にかけているのは景虎のことだけではなく、直江を含めて二人の関係のようである。どうやら、長秀にも多少なりとも仲間意識というものが芽生えだしたのだろうか。そう本人に話せば、否定するだろうが――。

「とっつぁん……。何笑ってんだよ」
「ん? いや、なんでもない」

 色部は穏やかな物腰で徳利を差し出した。ちょっと酔いが回り出したか。目の据わった長秀だが、グイッと胸元にお猪口を差し出してきた。

「それで、とっつぁんは景虎に何の用だったんだよ?」

 唐突に話題を降られて一瞬、長秀が何を言いたいのか解らなかった色部である。

「だから、俺に使い頼もうしただろ」

 ――ああ――……。

「いや、ちょっとこの村で怪事件が起こっていてな。私一人では手に負えぬやもしれぬから、報告も兼ねて景虎殿に来てもらおうかと思って――」
「…………」
「しかし、まー、景虎殿の事は残念だったが、行き違いにならなくて良かったというところか」

 危うく景虎殿を心配させるところだった、と色部も穏和な微笑を浮かべて酒を口許に運ぶ。

「直江には連絡とったのか?」
「いや、まだだ。連絡しなければならないな。戦力は多いに越したことはないし」

 色部は苦笑を浮かべた。

「それに、景虎殿に連絡すれば――」

 自ずと直江もついてくるだろうと思ってたからな――……。

「…………」

 ――はぁ、と長秀は大きく脱力した。そんな台詞を和やかな微笑で言われてはたまらない。

「とっつぁん……」
「何だ。長秀」

 大概、直江のことは俺も軽く景虎と一組だと考えているが、さすがにそれで連絡がつき、その上金魚の糞並みに共にやってくるとは思ってるなど、そう言葉にはできない。

「――あんた、少しばかり他人への認識変えたほうが良いと思う」
「そうか。間違ってるか?」
「…………」

 間違っちゃいないが――……。
 笑って応じるからにはどうやら、無自覚のようで。でも、そうでもなさそうで。
 飲み慣れれば酒の苦さを感じないのと同じように、

(――百年も経てば、皆こんなもん――なのか……?)

 言えた義理ではないが、そう思う長秀であった。

  〈了〉第三章 行灯
 

第四章に続く


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