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仰木家シリーズ8(前)  著・なぎ様(蜃気楼の館




幸せになろう






二月某日。
中学校三年間で習う範囲のノルマもこなし、後は来る受験当日に向けての総復習の日々。
仰木美弥は落ち着かない気分で問題集と格闘をしていた。
暦の上では春と言いながらも、松本の街を吹く風はまだまだ肌を刺すような冷たさをしている。
コートとマフラー、手袋が手放せない。
今日も愛用のコートとマフラーを身につけて登校してきた美弥だ。
問題集を解きながら考えるのは兄・高耶のことである。
志望大学の合格発表を見に行くため、高耶は昨日のうちに東京へと向かった。
迎えに来るはずだった直江が仕事の都合で来られなくなったので、急遽電車で東京へ向かうことになった兄を松本駅まで見送りに行った。

『お兄ちゃん、気をつけてね。合格発表見たら、そっこーで美弥にメール入れてよ。授業中でもちゃんとマナーモードにしとくから。直江さんにもよろしくね』
『わかった、わかった』
『お父さんにも連絡入れてあげてよ?今朝は何も言わなかったけど、本当は心配してるんだからね』
『それもわかってるって』

夏休みを境に勃発した高耶vs仰木父のバトルに終止符が打たれる時が来た。
彼らの父親は高耶が直江と交際するのを断固として反対している。
大学に合格したらラブラブ同棲生活(こちらは美弥たちが楽しんで言っているだけで、高耶は生活費を節約するための『同居』だと言い張っている・・・が実際には直江と二人暮しで健全な同居生活が送れるはずがないのは周知の事実)を送れるかどうかの瀬戸際。
売り言葉に買い言葉で、大学に現役合格すれば同居は認める。
不合格なら直江と二度と会うことはできない。
高耶にとって一生に一度の恋が懸かっているのだから絶対に負けられない勝負だ。
クリスマスに美弥が事故に巻き込まれたのを目撃した高耶は、母親が事故死した瞬間を思い出したのと疲労からくる風邪で意識を失って病院に運び込まれた。
その時、高耶の父親と直江が交わした会話の内容を彼は知らない。
父親がそんなことをぺらぺらと喋るタイプではないし、直江もそのことは何も語らなかった。
一度張ってしまった男の意地は、何かしらのきっかけがないと撤回することはできないのだろう。
高耶が父親を認めさせるため、そして父親が彼らの本気を認めるためには『大学に現役で合格する』という確固たる証が必要なのだ。

やがて電車がホームに滑り込んできて、ぷしゅーっと気の抜ける音とともにドアが開かれた。
電車に乗り込んでいく高耶の背中に向かって、

『直江さんの部屋に着いたら連絡してね。それから・・・』

結果がどうであれ、ちゃんと家に帰ってきてね。
その言葉を胸に飲み込んで、美弥はこれ以上は無理という全開の笑顔で高耶を見送った。
松本駅で別れた数時間後、高耶から無事に到着したとの連絡が携帯に入った。
明日の結果が気になって自分の受験勉強も手につかず、眠ろうとしても目が冴えてしまって眠れなかった美弥は寝不足のまま学校へ向かったのである。
いつもは授業中は鞄の奥底に眠っている携帯電話を制服のポケットに忍ばせて問題を解く。
五分おきにこっそりとポケットに手を突っ込んではメールを確認。
まだ連絡はこない。

(神様っ!!)

絶対にお兄ちゃんを大学に現役で合格させてくださいっ!
両手を組んで神様に祈る。
その瞬間・・・ポケットの中の携帯が震えた。
高耶からのメールだ。
美弥は素早くポケットに手を突っ込んで携帯を取り出した。
折りたたみ式の携帯を開く手が微かに震える。
ボタンを押して画面が切り替わる時間がいつもより長く感じるのは気のせいだろうか。
メールを開いて画面をスクロールさせた。

  合格

その二文字を見た瞬間、美弥は思わず「やったぁっ!!」と叫びそうになってしまった。
教師がじろりと美弥を睨む。
すみません、と肩を竦めた美弥だったが、気分はもう勉強どころではなく、休み時間が待ち遠しくてしかたがなかった。
休み時間になったらすぐに高耶に電話して「おめでとう」と言うのだ。

(よかったね、お兄ちゃんっ!!)












授業が終わると美弥は超特急で教室を飛び出した。
体育館へ続く渡り廊下まで走ってくると、美弥は三回深呼吸をして携帯電話を取り出す。
リダイヤル機能を利用して、高耶が出るのを待った。

『もしもし?』
「おめでとう、お兄ちゃんっ!!!」
『ん、ああ。ありがとう』
「何、他人事みたいな言い方してんのよぉ。もっと喜ばなくっちゃダメじゃん」
『うー、なんかまだ実感湧かないっつーか。夢見てるみたいっつーか』
「現実だよ、現実っ!」

合格した本人よりも興奮している美弥である。

「よかったぁ。ほんっとに、よかったよぅ。おめでと〜、お兄ちゃん」

興奮していた声はやがて涙声に変わっていく。
嬉しくて涙が出てくるなんて初めてかもしれない。
電話越しに聞こえてくる涙声に高耶が狼狽しているのがわかった。
目尻に浮かんだ涙を人差し指で拭って、美弥はもう一度「おめでとう、お兄ちゃん」と言って電話を切った。

「あ、いっけない。お父さんに連絡したか聞くの忘れてた」

もう一度高耶に電話をかけようと思ったが、次の授業開始まで残り三分。
諦めて教室へ向かおうとする美弥を呼び止める声に振り返る。

「坂野くんだ。久しぶり〜」

にっこりと笑顔を浮かべる。
ひょろりと背の高いこの少年は、美弥よりも一学年下の中学二年生。
去年の文化祭の実行委員会で一緒だったのだ。
人懐こい性格の坂野とは文化祭が終わってからも何かと顔を合わせれば話をする、といった関係が続いていた。
ここ数ヶ月は滅多に顔を合わせる機会がなく、話をするのは本当に久しぶりだった。

「久しぶりっす。受験勉強どうっすか??」
「ここまできたら、後はなるようになれ!って感じかな」
「あはは。余裕っすね、美弥さん」
「余裕あるようにみえる?これでも内心びくびくなんだから」
「大丈夫、大丈夫。美弥さん、頭いいから。絶対合格しますって」
「お世辞でも嬉しいよ。ありがとね」

お世辞じゃないんだけどなぁ、と坂野は長い指でこめかみのあたりをかく。
立ち止まって美弥と話をしている坂野に、少し離れた位置から級友が「置いてくぞ!」と叫ぶ。
先に行けと促して、坂野は再び美弥に向き直った。

「美弥さん、放課後少しだけ時間もらえます?」
「いいけど。今日は急ぐから本当にちょっとだけだけどね」
「んじゃ、途中まで一緒に帰りましょうよ。掃除が終わったら昇降口で待ってますから」
「ん、わかった。じゃあ、放課後ね」

坂野と別れて教室へ向かう途中、授業を始めるチャイムが鳴り響く。
超特急で教室へと戻ったとき、幸いにもまだ先生は教室には来ていなかった。
ほっと胸をなでおろし、カバンの中から授業に使うテキストを取り出すのであった。


















高耶からの結果待ちをしている人間がここにも一人。
インスタントのコーヒーをちびりちびりと飲みながら時計に目をやってはため息をつく。
そろそろ合格者が貼り出されている時間になる。
胸中複雑な思いで仰木父は本日何度目かの大きなため息を吐いた。

「どうかなさったんですか?」

向かいの机でパソコンを打っていた事務の女の子が訊ねる。

「今日は息子の大学の合格発表なんでね」
「そうなんですか。合格してるといいですねぇ」

のんびりとした口調に少しだけ心が落ち着く。
合格はして欲しい。
だが・・・合格してしまえば直江との交際を認めることになる。

(どうすればいいんだろうなぁ、母さん)

数年前に他界してしまった妻の佐和子に問い掛ける。
息子の幸せを願う父親として、自分はどういった決断をすればいいのだろう。
ぷるるるる。
電話の着信音に心臓が跳ねた。
応対をした女の子が仰木父に向かって受話器を差し出す。

「仰木さん、息子さんからお電話ですよ」

ありがとう、と受話器を受け取って一呼吸。

「もしもし」
『父さん?オレだけど』

緊張の瞬間が仰木父に訪れた。



















ところ変わって栃木県宇都宮市。
机の上に頬杖をついて、橘あきらは窓の外を眺めていた。
グランドに積もった白い雪はそろそろ溶けかけていて茶色く汚れている。
今の時間は自習で各々が苦手科目の復習に勤しんでいる中、問題集を広げてはいるがまったく手付かずの状態。
心ここにあらず。
今日は大好きな叔父の、ある意味人生最大の山場になるかもしれないのだ。
合否の結果は美弥がメールで知らせてくれることになっている。
ちょこちょこと携帯の画面をチェックするが、未だに連絡はない。

(神様、仏様〜!!義明兄ちゃんの幸せのために、どうか、美弥ちゃんのお兄さんを大学に合格させてあげてくださいっ!)

両手をがしっと握って祈っていると、黒板の方からこちらをじっと見ている視線を感じた。
そろりと顔をあげると教壇から担任の奥村があきらを見て呆れ顔をしているではないか。

「さっきから何を百面相して遊んでるんだ、橘」
「やだなぁ、先生。誰も百面相なんてしてないですよ」
「嘘つけ」
「嘘じゃないって。あ、ほらチャイム鳴るよ」

あきらの言葉を肯定するように授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
しょうがないなぁ、と眉を寄せて奥村は黒表紙の出席簿と問題集を重ねる。

「日直、挨拶」

奥村の言葉に日直が「起立」と言う。
がたがたと椅子から生徒が立ち上がり、「礼」という号令に合わせて頭を下げた。
こうして奥村に向かって礼をするのも後何回あるのだろうか。
卒業と同時に縁が切れるわけではないのだが、何故か寂しいと思う気持ちが拭えない。

「橘あきら」

突然名前を呼ばれて焦る。
奥村を見やると悪戯を思いついた子供のような表情。

「授業中に余裕ぶっこいてたバツ。職員室までついて来なさい」
「はぁい。わかりました」

問題集を机の中に片付けて、あきらは教室を出て奥村の後を追いかけた。
ゆっくりとした歩調であきらが追いつくのを待っていた奥村は、小走りに駆け寄ってきたあきらが肩を並べた気配を察して喋りだす。

「義明、仕事忙しそうか?」
「相変わらず、うちのお父さんにこき使われてるよ」
「今朝から携帯電話してんのに、全然出る気がないんだよなぁ。仕事忙しくて出られねぇのかな、と思ってさ」
「そーゆーわけじゃないけど、今日は義明兄ちゃん、ワタクシゴトで忙しいんだよね」
「ワタクシゴト?電話に出られないほど忙しいとは・・・女絡みか??」

当たらずとも遠からず。
間違っているのは「女絡み」という点だけである。

「今日、大学の合格発表なんだ」
「誰の?」
「義明兄ちゃんが付き合ってる人」
「大学受験っつーことは、まさか現役高校生じゃねぇだろうな?」
「そのま・さ・か」
「何だとぅ!?」

奥村の素っ頓狂な叫びに生徒たちが振り返る。

「付き合ってるヤツがいるのは知ってたけど、現役高校生とは驚いたぞ。俺らが今二十九だろ。高校三年っつーことは十八。干支が一周しちまうじゃねぇか」
「大丈夫、大丈夫。好きになったら年の差なんて関係ないない」
「・・・一回りも年下かぁ・・・」

その後ぼそりと呟いた言葉にあきらは呆れて言葉がでなかった。

「義明のヤロー、女子高生ひっかけるなんて美味しいマネしやがって」
「・・・」
「おまけに親友の俺様に紹介もしないなんて、なんて友達甲斐のないヤツなんだ。女子高生だから出し惜しみしてやがったな」
「・・・けーすけちゃん。その言葉、清香ちゃんが聞いたら怒るよ」
「おまえさんが黙ってりゃバレるこったぁない。つーわけで、内緒にしてろよな」
「もーすぐ結婚するひとのセリフじゃないわよね。浮気したら清香ちゃんより先に、あたしが横っ面引っ叩くから」
「おまえ、力あるもんな。考えるだけで痛そうだ」
「往復におまけもつけたげる。振りかぶって、思いっきり強烈なヤツ」
「おー怖っ」

茶目っ気たっぷりにそう言って奥村は笑った。
つられてあきらも顔を綻ばせる。
つい先日、あきらの初恋は玉砕した。
最も恋心に気づいたのは相手が結婚すると知った後だったのだが・・・。
ちなみにあきらの思いは相手・・・目の前を歩いている奥村・・・は何も知らない。

「忙しくなるね、けーすけちゃん」
「気が重いぜ、ったく。結婚式なんて、所詮は見世物じゃねーか」
「まったそーゆー言い方するぅ。結婚って女の子にとっては一大事なんだからね。もっと真剣に考えてあげなくっちゃ、清香ちゃんが可哀想だよ」
「へぇ?おまえでも、それなりに花嫁衣裳に憧れたりしちゃうわけ?」
「あったりまえじゃない。失礼しちゃう」

ぷん、と膨れてあきらは横を向いた。
廊下の窓ガラスの向こう、グランドにはジャージ姿の下級生が体育館へと急いでいる。
あきらの通う中学は、校舎と運動場を挟んだ向側に体育館があった。
冬の寒い日の移動など、あきらたちはぶちぶちと文句を言いながら走ったものだ。
卒業間近の今、あの頃がひどく懐かしいような気がした。

「調子どうだ?」

声のトーンが変わった。
優しく、それでいて心配な声。

「何が?」
「何がって・・・おまえの受験勉強だよ。ほんっとにノンキなヤツだなぁ」
「やだなぁ。ちゃんと勉強してるよ」
「わかんないコトがあったら義明に訊けよ。俺が教えるよりずっと判りやすいから」
「それって現役教師のセリフ?」

呆れながらも、あきらは奥村の心遣いに感謝する。
何かと気にかけてくれているのはやっぱり嬉しい。
職員室の空気はいつもと少し違っているような気がした。
まだ進路の決定していない生徒を抱えている3年生の担任たちは、みな一様に複雑な表情をしている。

「これ、クラスの皆に配っといてくれ」

b5サイズのコピー用紙の束をあきらに手渡す。
卒業式の日程が書かれている。
あきらが奥村を見上げると、タイミング悪く内線がかかってきた。
「はい、お電話代わりました」と馬鹿丁寧な口調の奥村がなんだか可笑しい。
受話器を肩に挟んでファイルをめくりながら、奥村はあきらに目で「じゃ、頼んだぞ」と合図を送る。
了解、と軽くコピー用紙の束を持ち上げて職員室を出た。

「もーすぐ卒業式かぁ」

先ほどは奥村と並んで歩いた廊下を今度は一人で歩く。
口に出してみると何故か急に寂しさがこみ上げてきた。
卒業しても奥村との関係が切れてしまうわけじゃないのだが、学校に来れば会えるという確実さが無くなってしまう。

「卒業・・・したくないなぁ」

ぽそりと呟く。
しんみりとした途端に泣き出したくなる。
新しい生活に寄せる期待も大きい。
だけど「今」の楽しさも失いたくないものの一つであることに変わりはなかった。

「タイムマシーンでもあればなぁ。今と未来と過去と、行ったり来たりして、嫌な現実は過去に戻ってやり直しちゃったりして」

とうとう思考が非現実的になってきた。
てくてくと廊下を歩いていると、制服のポケットに入れていた携帯電話がぷるぷると震えだした。

「美弥ちゃんだっ」

画面を見る前からメールの主が誰であるか悟る。
高耶の合否の結果を知らせるものだということは言うまでもない。
きょろきょろとあたりを見回して教師の姿がないことを確認してから携帯電話を取り出し、ボタンを押して新着メールの確認をする。
タイトルは「祝!!」
それだけで結果良好だったことが伺えた。

『受かったっ!お兄ちゃん、大学合格したよっ!!!これで義明さんと一緒に暮らせるよ〜!』

これに対するあきらの返事。

『きゃ〜!やったね、おめでとうっ!春からはらぶらぶ同棲生活の始まりだね。帰ってからまたメールするよ。お祝い、考えなくちゃね』

さらに美弥からの返事。

『ありがと〜!今ごろふたりで抱き合って喜んでたりして(って、人目があるからそれはないか?)美弥も学校だから、帰ってからメールするね』

くふくふと心のそこから笑いがこみ上げてくる。
大学を現役で合格すれば、高耶の父親は二人の仲を認めてくれると言い切った。
男に二言はないっ!というタイプの父親だったので、あれこれと難癖をつけて話を有耶無耶にすることもないだろう。

(義明兄ちゃん、よかったねぇっ!!)









合格を確認し、必要書類を受け取った高耶と直江が人心地ついたのは、それから二時間ほど経ってからだった。
まずは心配している美弥への連絡。
そして気のないフリをして実は一番結果を気にしているであろう父親への電話。
直江の姪のあきらには美弥から連絡が行っているだろうから省略。
学校が終わった頃、改めて直江から電話を入れる予定でいた。
軽く食事をするために入ったレストランのソファに腰を落ち着けると、高耶は本日何度目かの安堵の息を吐く。

「まだ、信じられませんか?」
「マジで現役で合格するとは思わなかった」
「夏にお父さんに啖呵をきって飛び出した人間の言葉とは思えませんね」
「・・・思い出させるなよ、んな昔のこと」

夏休み、高耶は父親とケンカをして家を飛び出した。
父親の態度にぶち切れた高耶が家族の前で繰り広げた激しいキスシーン。
いつもの高耶だったら絶対にあり得ないキレ方だっただけに、冷静になって考えてみると穴があったら飛び込みたいほど恥ずかしいものだった。
それをネタに未だに美弥にはからかわれる。
兄としての威厳は形無しだ。
クリスマスには弱音を吐いた。
もしも合格しなかったら・・・という仮定がひどく現実じみていて怖かった。
何もかも放り出したい気分になったが、受験を放棄するのは直江との未来を放棄するのと同じ。
それだけは何があっても棄てられない、手放せない。
不安な気持ちで迎えた受験当日。
直江と美弥とあきらから贈られた「必勝合格」のお守りをポケットに会場へ入った。
彼らの応援が心強かったのを覚えている。
やるだけのことはやった。
試験の出来について父親は何も聞かなかったし高耶も何も言わなかった。
多分、訊ねるきっかけを掴めなかったのだろう。
合格を告げた電話の向こうで、父親が平静を装いつつも喜んでくれていたのが伝わってきて嬉しかった。

「あなたの努力が実った当然の結果ですよ。もっと自分に自信を持ちなさい」
「・・・ありがと、な」

優しい声に小さく答える。

「おまえが居なかったら、絶対に合格なんて出来なかった。おまえが居てくれたから。おまえが支えてくれたから、オレ、頑張れたんだと思う。本当に、ありがとう」
「お礼を言うのはわたしの方ですよ、高耶さん」
「なんでだよ」

高耶の問いをいつもの微笑でかわし、直江はテーブルの上にメニューを広げた。
美味しそうに写された食べ物の写真に高耶の腹の虫が素直に反応。
気まずく視線を泳がせた高耶だったが、空腹の誘惑に勝てずメニューを眺める。
「これ、美味そう」「こっちのがいいかな」と独り言を言いながらメニューを吟味する高耶を、これ以上はないというほど優しい瞳で直江が見守っているのに本人はちっとも気づかない。
数分後、悩んだ末に決定した料理を注文し、引越しの段取りの相談が始まった。

「バイトも探したいしな。学校始まる前に引っ越したいんだけど」
「そうですね。マンションはいつでも引っ越せる状態になってますから、準備が整い次第業者を手配しましょう」
「業者って・・・。そんな大げさにしなくても大丈夫だよ」

大体、業者に依頼するほど荷物なんて持ってくるつもりはない。

「そうですね。では、必要なものは改めて揃えることにしましょう」
「揃いのカップとか茶碗とか湯のみとかだったら、お断りだぞ?」
「つれない言葉ですね。やっと、あなたと一緒に暮らせると言うのに」
「うーるさい。イヤなんだよ、そーゆーの」

ペアのカップや食器類。
パジャマも色違いのお揃いで・・・なんて、まるで新婚さんみたいだよな、などと怖い想像をしてしまった。
エプロン姿の自分が直江のマンションの台所で夕食の準備をしていて、そこへスーツ姿にカバンを抱えた直江が帰宅する。
チャイムの音にコンロの火を止めて玄関へ向かって走っていく。
チェーンを外してドアを開けて直江を迎え、毎日の習慣になっているお帰りなさいのキス。
抱きしめられて激しくなっていくキスに『夕飯の支度中!』と抗議するが聞き入れられず・・・。
そんな想像が頭の中を勝手に駆け巡りだしてしまったから大変。
一瞬にしてユデダコのように顔を真っ赤にした高耶に直江は首を傾げた。

「どうしたんですか、高耶さん?どこか具合でも」
「なんでもない、なんでもない、なんでもないっ!」

こっ恥ずかしい妄想を悟られまいとして高耶は激しく首を横に振って否定する。
妄想の中の二人は現実の高耶の態度とは裏腹に仲睦まじくベッドルームへと消えていった。

(何を考えてんだ、オレはぁぁぁぁぁ)

他人の目がなければ景気良く頬を叩いていただろう。
妄想はエスカレートし、直江の手によって衣服を剥ぎ取られた高耶はベッドの上でアラレモナイ声をあげ・・・。
妄想がクライマックスに突入すると同時に、それを遮るように携帯電話の着信音が鳴り響いた。
心臓が止まるほどびっくりしたが、そのおかげで妄想も消え去ってくれた。
はあ、と踊る心臓を抑える努力をしつつ取り出した携帯電話のボタンを押す。

『もしもし、高耶っ!?』
「え、あ、譲?」
『譲?じゃないよ。どうだったんだよ、合格発表!!』

松本で高耶からの連絡を今か今かと待ちわびていたのだろう。
ちなみに譲は家業の歯科医院を継ぐために一足早く東京の歯科大学に合格していた。
同じ東京都内で譲が探した部屋は直江のマンションにほど近い。
見知らぬ土地で昔からの親友と今までと同じように交流できるのは嬉しいことだ。

「ああ、悪い。合格してた」
『合格!?そっか、合格してたんだ。よかったな!』

電話の向こうでまるで自分のことのように喜んでくれる譲がいる。

「ありがとな。いろいろ心配してくれて」
『おまえ、マジで頑張ってたもんな。先生たちもびっくりするよ、きっと』
「そーだな」
『学校には連絡したのか?』
「ヤバっ、忘れてた。まだ電話してねぇよ」
『山川サン、気にしてるぞ。早く電話して安心させてやれよ』
「わかった。これから電話する」
『これから松本に帰ってくんだろ?合格祝いしようよ、合格祝い』
「今日は無理だな。美弥がメシ作って待ってるって言ってたから」
『じゃ、明日ならいいよな。3−3のヤツらに声かけとくよ』
「ok。詳しいこと決まったら連絡してくれ」
『わかった。じゃあな。気をつけて帰ってこいよ』





譲からの電話を終えた高耶は直江に断ってから席を立つと、城北高校の職員室でソワソワと高耶からの連絡を待っているだろう山川に電話を入れるべくレストランの外へ出た。
大半の教師が「絶対に現役合格なんて無理!」と言っていたのだが、山川だけは高耶の熱意に真剣に応えてくれた。
夏期講習ギリギリに予備校へ潜り込めたのも山川のおかげだったし、受験日前日には「おちついて頑張って来い」と応援もしてくれた。
日頃教師陣に反抗的だった高耶も、中学時代の噂で彼を色眼鏡で見たりしなかった山川にだけは心を許していたのだ。

「3年3組の仰木です。進路の山川先生お願いします」

進路指導室に繋がる数秒の間、高耶は山川に伝える言葉を頭の中で繰り返す。
合格の報告とお礼。

『お電話代わりました。山川です』
「あ、先生?オレ、仰木」
『仰木か?結果は?今日、合格発表だったんだろう?』
「受かった」
『受かった?本当にかっ!?』
「おう。本当に受かってた。オレも信じらんねー」
『そうか。合格したかぁ。本当によかったな』

おめでとう。よく頑張った。
そう労ってくれた山川の声が涙ぐんでいるように聞こえる。

「ありがとな、先生」

電話を切って店内に戻ると、今度は入れ替わりに直江の携帯が鳴り出した。
失礼、と席を立ち、高耶と同様に店の外へと出て行く直江の背中を見送る。
これで連絡をしてないところはないよな、と考えていると携帯電話がメールを受信。
メールは綾子からだ。
もう少し落ち着いてからでいいだろうと綾子には合格を知らせていなかったが、美弥か千秋経由で知ったのかもしれない。
千秋にも合格の旨を伝えていないので、彼もまた譲か美弥経由で知ったに違いない。
大学合格の祝いに加え、東京へ出てきたら合格祝いに徹夜で呑み会だからね、と今から恐ろしくなるような内容が書かれていた。
オレ、まだ未成年なんだけどな。
と少々のアルコールなら嗜む程度に飲んでいる高耶が笑いながら呟いた。
やがて数分後、電話を終えた直江が席に戻ってくると同時に注文していた料理もやってきた。

「仕事?」

早速エビフライに箸を伸ばした高耶が訊ねる。
今日は平日で、本来ならば直江は仕事をしているはず。
それが朝から高耶の合格発表に付き添っていた。
勤めている会社が直江の実兄の不動産会社なので少々融通が利くらしい。
だが必要以上にこき使われている事実は高耶には内緒の話。

「奥村からでした。結婚式の二次会の幹事を頼むと言われましたよ」
「奥村って、おまえの友達だっけ」
「ええ。高校時代からの友人です。五月に結婚するんですよ。高校時代から付き合っていた女性が相手ですから、かれこれ十年以上の付き合いを経てということになりますね」
「へぇ」

フライを飲み込んだ高耶が驚きの声を漏らした。
長年培ってきた二人の関係が「結婚」というひとつの節目として落ち着く。
そんな長い時間をただ一人だけ思い続けることの凄さ。
そしてその道を自分と直江は歩いていくのだという決意。
実は内緒の話ですけどね、と直江は誰にも(姪っ子のあきらにすら)言ったことのない事実を明かしてくれた。

「大学を卒業した後、一度プロポーズをしたんですよ。見事に玉砕したんですけどね」
「何で?」
「彼女の家庭の事情で、結婚に対して疑心暗鬼になっていたようです。奥村を想う気持ちに嘘はなかったんでしょうが、踏み切れない部分もあったんでしょうね」

気長に待つさ、と笑った奥村の少しだけ寂しげな顔を今でも覚えている。
探し続けても見つからない。
魂の欠片すら感じられない喪失感。
疲れ、荒みきった直江を支えてくれたのは家族の他には奥村だけだった。
他人と距離を置いていた直江が始めて歩み寄った同年代の友人。
高耶が直江にとってかけがえのない存在であるのとは別の意味で、奥村は直江にとってなくてはならない友人なのだ。

「幸せになって欲しいと、心からそう思ってますよ」
「イイヤツなんだな、奥村ってヒト」
「?」
「おまえがそんな風に誰かの話するのって、考えてみたら聞いたことなかったよな」
「そうかもしれませんね」
「オレの知らないおまえを知ってるんだ」

一番、荒れていたときの直江を。

「ちょっとだけ・・・妬ける」

高耶の一言に直江は目を細めた。
テーブル越しに座る高耶を心底抱き締めたいと思う。
多分無意識に出たであろう高耶の言葉は、直江の心をどうしようもなく温かくさせる。

「いつかあなたにも会わせたいですよ」
「どーゆー関係って言うわけ?」
「そりゃあ・・・わたしの一番大切な人です、って」
「ばーか」

そっけない口調で言い、付け合せの野菜を箸で摘んで口の中に放り込む。
俯いた高耶の頬が心なしか赤く染まっているように見える。
照れ隠しなのだと気付き、直江は小さく笑った。
この愛しい人を、大切な友人に会わせたい。

(この人が俺の捜し続けてきた、最愛の人だと)

親友の告白に驚くことは想像できるが、奥村が異質なものを見るような目で見ないだろうということは確信していた。
驚いて目を丸くして、それから笑う。
ありのままを受け入れてくれる、そんな男なのだ、奥村は。

「愛していますよ、高耶さん」

突然そんなことを言い出した直江に、口の中の物を思わず吹き出してしまうところだった。
吹き出すのを無理に堪えた所為か激しく咳き込んでしまう。
グラスの水を飲んで落ち着いたところで高耶はへの字口で直江を睨みつける。
二人きりのときならば「オレも」と応えられるほどに成長した奥手な高耶であったが、公衆の面前で臆面も無く言われるのには慣れないようだ。

「どぉの口が、んなフザケタことをほざくんだぁ、こらぁ」
「ふざけてなんていませんが?」
「てめーとは、一回きっちり話つけたほうがよさそうだな」

昔取った杵柄。
睨み凄みはお手の物。
照れ屋な恋人に微苦笑し、直江は少し冷めたフライを口に運んだ。








食事を終えた後、松本まで送るとの申し出を断り新宿駅で直江と別れた高耶は、午後二時ジャストの松本行きの特急に乗り込むことができた。
シートに腰をかけ、高耶は流れていく景色を見た。
つっと唇に指先をあてる。
名残惜しげな直江と交わした軽いキス。
来月からはずっと一緒に居られるというのに、ほんの僅かな別れがこんなに寂しいとは思いもしなかった。

「オレだって・・・よ」

誰にも聞こえないように呟いた言葉。
直江と同じように、直江以上に。
高耶だって直江のことを誰よりも愛している。
口に出して言わないけれど、それは直江も十二分に判ってくれているだろう。

「あいつがイヤだっつっても、四年間は一緒に暮らすんだから」

だからほんの少しの別れなど何でもないのだと。
自分に言い聞かせるようにして高耶は目を閉じた。
松本へ帰ってからの問題は父親である。
売り言葉に買い言葉で交わした約束であったが、やはり父親にも納得してもらった上で家を出て行きたい。
ゆっくり時間をかけて説得をするのだ。
クリスマスにどれだけ自分が直江を思っているのかは伝えた。
ある意味大学受験よりも難関なのかもしれない父親の説得。

(判ってもらうさ、絶対に)

高耶と高耶の決意を乗せて、特急電車は松本へと向かうのだった。











続く(中)

仰木家シリーズ8(前)  著・なぎ(蜃気楼の館



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