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仰木家シリーズ8 幸せになろう(中)  著・なぎ様(蜃気楼の館




授業の終わりを告げるチャイムが深志中学の校舎内に響き渡る。
日直の号令に合わせて教諭に頭を下げると、続いて十五分間の掃除に入り、教室担当のグループが机を室内の前方に運び、ホウキで床を掃く者とモップで床を拭く者と各々の仕事に取り掛かった。
教室掃除担当の美弥も雑巾で机の上や棚の上を拭き始めた。
携帯のメールに高耶から松本駅に到着する時間が入っていた。
どうやら直江と一緒ではないらしい。
直江さんも一緒に松本に来ればよかったのに、と思ったが彼は社会人なので仕事もある。
高耶の卒業式には直江もあきらも呼んでお祝いをしたいが、その数日後には美弥も受験を控えている身だ。

「会いたいけど、無理は言えないもんね」

掃除終了3分前にゴミ箱を焼却炉へと運ぶ途中でそう呟いた。
あきらと会ったのは去年のクリスマスだ。
お互いに受験勉強に専念しなくてはいけないため、電話もメールも控えてはいたのだが・・・やはり一日数度のメールのやり取りだけは続けている。

「受験が終わったら、思いっきり遊んじゃうんだ」

あきらと二人で笑って会うにはまずは高校合格。
今夜も頑張って勉強しようと美弥は心の中で思う。
だが目先の問題は今夜のご飯の献立だ。
卒業祝いは卒業式の当日にするつもりだが、今夜は今夜で高耶の苦労を労ってあげたい。
元々好き嫌いのない高耶なので献立を考えるは難しくないが、やはり今夜は高耶の好物を作ってあげるのがいいだろう。
松本駅で高耶の帰りを待ち、そのままスーパーに寄って買い物をする。
放課後の予定はそれで決まりだ。
焼却炉にゴミ箱の中身を放り込んで美弥は教室へと向かった。
美弥が教室に戻った頃には、すでに掃除を終えたクラスメイトたちが帰宅の準備をしている。
所定の位置にゴミ箱を置いて自分の机に戻り、カバンの中に問題集や筆記用具を片付けていると廊下からクラスメイトの女の子が美弥の名を呼んだ。
振り返ると教室のドアの影から坂野がひょろりとした身体を覗かせていた。

「いっけない、忘れてた」

小さな声で呟いて美弥はぺろりと舌を出した。
坂野が「話がある」と言っていたのをすっかり忘れていたのである。
学校を出る前でよかったと本気で思いながらカバンを抱えて教室を出ると、昇降口へ向かうクラスメイトに礼を言いながら頭を下げている坂野の背中をぽんと叩く。

「ごめんね」
「いいっすよ。俺も今来たとこですから」

にっと笑う坂野。

「すっかり忘れて帰ろうとしてたでしょ、美弥さんってば」
「・・・バレたか」
「美弥さんの行動パターンはお見通しっすよ。教室まで迎えに来て正解」

よかったよかった、と坂野は大げさに胸を撫で下ろす仕草をした。

「悪かったわね。行動パターンバレバレの単純女で」

上目遣いに坂野を睨むマネをするが、すぐに笑顔を浮かべた。

「ま、ホントに単純なんだからしょうがないんだけどね〜」
「いやいや、そこが美弥さんの可愛いところっつーか」
「え?」
「げっ。何でもない、何でもないっす」
「何よぅ。教えてくれないの?」
「はは。聞き流してください、後生ですから」

さらりと流して「行きましょう」と坂野が美弥を促した。
コンパスの差でどうしても坂野に遅れをとってしまう。
ちらりと横目で美弥を見た坂野が彼女の歩幅に合わせてスピードを落とす。
他愛のない会話をしながら校門を出て、美弥は駅へ向かうために自宅とは反対方向に足を向けた。

「あれ?美弥さん、家、あっちじゃないんですか」
「そーだよ。でも今日はお兄ちゃんが東京から帰ってくるから、駅で待ち伏せしてようかなと思って」
「そーなんですか。じゃ、駅前のマック行きません?おごりますから」
「気持ちだけありがたく受け取っとくよ。自分より年下におごってもらうワケにはいかないもん」
「遠慮なく。先月のバイト代が入ったんで、多分、美弥さんより金持ってますよ、俺」
「中学生のクセにバイトなんてしてんだ」
「ウチの手伝いっすよ。母ちゃん、人使い荒いんで直談判してバイト料あげてもらったんっす。それでもバイトのおねーちゃんより時給安いっすけどね」

倍以上働いてんのになぁ、と文句をたれる。
坂野の家はクリーニング屋を営んでいて、市内のホテルや旅館などのシーツや浴衣などのクリーニングを請け負っているそうだ。
シーズン中は目が回るほど忙しく、坂野も手伝いに借り出されているのだと言う。

「へぇ。お家のお手伝いしてるんだ。エライね、坂野くん」

小さな子供を褒めるような口調で美弥が言うのを、坂野は苦笑いしながら聞いていた。
三人姉弟の末っ子だが長男の坂野に父親はクリーニング屋を継がせたいらしい。
坂野の父親は彼の四つ上と五つ上の姉には手伝いを強制したことはなかったが、長男である坂野が中学へ上がると同時にクリーニング屋を手伝わせていたのだ。

「アイロンがけはお手のもんですよ。ご用命は坂野クリーニング店にどうぞ。サービスしときますんで」
「ほんと?クリーニング代って思ったよりかかるもんね。今度、冬物のコートとかお願いしちゃおうかな」
「どうぞ、どうぞ。格安の超特急で仕上げますよ、美弥さんの頼みなら」
「あはは。勝手に値引きしてたらお父さんに怒られちゃうよ。普通の値段でいいから、お願いするね」

話がある、と美弥を誘った坂野であったが、肝心の「話」はまだ出てこない。
何の話だったんだろうなと思いながら歩いていると、数分後には松本駅前のファーストフード店に到着した。
カウンターで注文をする。
坂野はハンバーガーのセットと単品でチーズバーガーを注文し、美弥はストロベリーシェイクを頼んだ。
別々に精算をしてもらうつもりだったが、坂野はさっさと美弥の分までお金を払い、シェイクとポテトとコーラの乗ったトレイを持って二階の席へ美弥を促す。
席に座ってから払えばいいよね、と手にしていたカバンに財布を片付けて坂野の後に続いた。
二階のテーブルには数人の学生が座っていた。
中には美弥たちと同じ中学の生徒もいる。
松本駅が見える窓際のテーブルに向かい合わせに座り、美弥はテーブルの上にシェイク代の210円を置いた。

「いいですってば。誘ったの俺だし。おごりますよ」

坂野はテーブルの上に置かれた硬貨を美弥の前へと押し返した。
一度出したお金を簡単に財布にしまうことができず、難しい表情をした美弥だったが、あまり頑なになるのも返って坂野に悪いと思いありがたくおごられることにした。
美弥がお金を自分の財布に片付けるのを見届け、坂野は目尻を下げる。

「お兄さん、何時の電車でしたっけ?」
「えとね、四時半だったと思うよ」
「じゃ、あと三十分ほどっすね」

左手首の腕時計を見て坂野が言う。
ハンバーガーの包みを開き、坂野はチーズバーガーにかぶりつく。
美弥もシェイクのストローに口をつけた。
坂野の食べる勢いは早く、彼女が驚いている間にチーズバーガーを平らげてしまった。
続いてもうひとつのハンバーガーの包みに手をかける。

「坂野くん、食べるの早いね」
「そうっすか?」
「って言うか、早すぎ。もっとよく噛まないと消化に悪いよ」
「大丈夫、大丈夫。俺、胃だけは頑丈なんで」

そういう問題でもないだろうと思ったが美弥は笑って済ませておいた。
この後、家では母親が夕食の準備をして待っているだろうに、こんなに食べて夕飯が食べられるのか少し心配になった。
よく食べる割には太れない体質らしく、年頃で食べる量に気を遣っている二人の姉にはよくイビられるそうだ。
美弥の兄の高耶も坂野と似た体質で、よく食べる割には華奢ではないが細身のラインをキープしている。

「ところで、話って何?」

唐突な話題の転換に坂野は噛んでいたハンバーガーを喉に詰まらせた。
ごほごほと咳き込んで、コーラの入った紙コップに手を伸ばす。

「大丈夫?」
「ごほっ・・・へ、平気っす」

涙目のまま坂野が笑みを浮かべた。

「もしかして悩み事とか?あたしでよかったら相談にのるから、遠慮なく言ってね」
「あ、いや、悩みじゃぁないんですけど」

どこか落ち着かない様子で視線をキョロキョロとさせていた坂野だったが、やがて意を決した表情で美弥を見た。
かしこまった坂野に美弥は飲んでいたシェイクのストローから口を離した。

「あのですね・・・」
「うん?」
「俺、美弥さんのこと好きなんです」
「うん」

頷いてから坂野の言葉をもう一度頭の中で繰り返す。

「って、えぇぇぇぇぇ!?」

最初は聞き間違えかと思ったが、間違いなく坂野は「美弥さんのことが好きなんです」と言った。
あまりにも予想外の告白に思いっきり驚いてしまった美弥。
実は坂野が美弥に気があるという事実は、当の本人を除いて周囲の人間には周知の事実だったのである。
ここのところ、兄・高耶の恋愛事情に神経を注いでいたので坂野の気持ちにはこれっぽっちも気付いていなかったのだ。
元々鈍いところのある美弥だったので、何かと話しかけてくる坂野を「可愛い弟分」くらいにしか見ていなかった。
美弥の声に二階席に座っていた何人かが振り返るが、坂野の告白が頭の中をぐるぐると回っていてそれどころではない。

「俺、入学したときから美弥さんのこといいなって思ってたんです。文化祭の実行委員で一緒になれて、すっげぇラッキーって思って、話できるようになってすっげ、嬉しくて。美弥さん、俺のことただの下級生としか見てないの判ってっけど、美弥さん、もうすぐ卒業だし、来年同じ高校に行けるか判んないし。美弥さんカワイイから、俺のいない一年の間に彼氏とかできちゃうかもしれないし。告白っても美弥さん困らせるだけかもしんねーけど、もしかしたらチャンスあるかもしれないし」

普段から饒舌な坂野だが、今回は緊張しているためかさらに饒舌になっている。
一気に喋って一息ついて、さらに続けた。

「美弥さんさえよかったら、俺と付き合ってもらえませんか。年下だし頼りないかもしれないけど、絶対に泣かせたりしませんから」

目を見開いたまま坂野を凝視すると、緊張のためか照れのためか彼の頬も赤くなっている。
坂野と知り合ってから一年と半年ほどだが、こんなふうに真剣な表情を見たことがなかった。
美弥の心臓も鼓動が早くなっていた。

「ごめん。あたし、坂野くんとはつきあえないよ」

しばしの沈黙の後、美弥ははっきりとそう言った。
坂野のことは嫌いではない。
むしろ、友達としては好きだ。
だが異性として意識することは無理なのだ。
美弥の返事をある程度は予測していたのか、坂野はにっこりと笑った。
いつもは元気な笑顔が心なしか悲しげに映る。

「ですよね。美弥さん、けっこー人気高かったんですよ。うちのクラスでも何人か「カワイイ」って言ってたヤツいましたし」

それは初耳だ。
だけど嬉しいと思うよりも坂野に申し訳ない気持ちが大きい。
俯いてしまう美弥に坂野の声は優しかった。

「とりあえずね、俺の気持ち知っててもらうだけでよかったんですよ。ずっと言わないってのもアリかなって思ったんっすけど、ひょっとしたらってこともありえるじゃないっすか。ダメもとで告白ったわけですから、結果は判ってたんです。だから、あんまり深刻に悩まれると俺も困っちゃうんですよね。あ、でも美弥さんのこと好きだってのは本気ですよ。って、そーゆーこと言うと余計に困りますよね。参ったなぁ」
「ごめんね、坂野くん。あたし・・・」
「謝らないでくださいよぅ。謝られると悪いことしちゃった気分になるじゃないっすか」

言いたいことを言ったらふっきれたのか、坂野はいつもの調子に戻っていた。

「さてと、そろそろタイムリミットですね。出ましょうか」

残ったポテトを手に持って坂野は椅子から立ち上がった。
美弥も立ち上がり、空になった紙コップをクズカゴに捨てた。
無言のまま階段を降り店の外に出る。

「今日はありがとうございました」

また明日、学校で。
そう言って坂野は美弥に手を振った。

「坂野くん」
「俺ね、気は長いほうなんで。気が変わったら、いつでも返事くださいね。それじゃ」

茶目っ気たっぷりに言う。
そして美弥がもう一度口を開く前にくるりと背を向けて歩き出した。
呼び止めることも出来ず、美弥は坂野の背中を見送った。
到着した電車から降りた乗客が駅の階段から降りてくる姿がちらほらと見え始める。
心の中で「ごめんね」と呟いて、美弥は青に変わった信号に従って横断歩道を渡り始めた。









人波に高耶の姿を見つけて、美弥は「お兄ちゃん」と呼びながら大きく手を振った。
目深に被ったキャップを取り高耶は出迎えてくれた妹に笑顔を見せた。
小走りに駆け寄って高耶の腕に飛びつき、

「合格おめでとー、お兄ちゃんっ!」
「ありがとな、美弥。おまえも受験で大変なのに、迷惑かけて悪かった」
「迷惑なんて、全然っ!」
「今度は美弥に『合格おめでとう』って言う番だな。受験、頑張れよ」
「やーだー、お兄ちゃん。プレッシャーかけないでよぅ」
「今日から家のことは全部兄ちゃんがやってやっから、おまえは心置きなく勉強しなさい」

長く伸ばした美弥の髪の毛をわしゃわしゃと撫でる。

「やめてよ、お兄ちゃん〜」

髪の毛がくしゃくしゃになっちゃうじゃないのと美弥が抗議の声をあげるが、高耶は笑ったまま取り合おうとしない。
天気が良く暖かかった昼間に比べ、日が暮れた今はずいぶんと冷え込んできた。
高耶の腕にぶら下がるように歩き出す。
今夜のご飯は高耶の好きなものを作るつもりなので、一緒にスーパーによって食材を買い込むのだ。
きゃっきゃと言いながら歩く美弥。
去年の夏に高耶が父親と大喧嘩をしてから今まで美弥には気苦労が耐えなかったことだろう。
自分も受験で大変な時期に、これでもかというほど高耶のことを案じてくれていた。
高耶の大学合格は美弥にとっても心の重荷が取れたのかもしれない。
妹のはしゃぎっぷりを微笑ましく思った高耶だが、ふと見せる美弥の横顔が心なしか沈んでいるように見えた。

「何かあったのか?」
「え?別に、なーんにも」

慌てて首を振る。
だがそんな仕草で高耶を誤魔化せるはずもない。
直も言い募ろうとする高耶から逃げるように、するりと絡ませていた腕を放してとんとんとん、と数歩高耶の前に立って振り返った。

「ご飯、何が食べたい?今日ね、マグロがお買い得なんだよ。お兄ちゃん、マグロ好きだよね。豪華にどーんとマグロ丼でもしちゃおうか?」
「そーだなぁ。美味いタレに漬け込んで、きざみ海苔たっぷりかけたら最高だよな」
「じゃあ、マグロ丼に決定〜。あとは何作ろうかな。野菜サラダがいい?それともマカロニ?ポテトサラダも美味しいよね。アボガドとササミのポン酢和えってのもアッサリしてていいかも」
「スーパー行ってから考えるか。親父は、今夜帰り遅いのか?」
「ううん。いつも通りって言ってたから、七時には帰ってくると思うよ」
「そっか。じゃ、メシは親父が帰ってきてからだな」

正念場だな、と高耶は思う。
父親も納得の上で上京し、直江と同居するための最後の山場なのだ。
電車の中で何度もシュミレーションしてきた。
高耶の頭の中にはいくつかのフローチャートが出来上がっていて、父親がこう言ってきた時にはこう言い返す。
こう言ってきた時にはこのように言う等と、父親の性格と行動パターンをくみ取って考えに考えてきたのである。
世の中思う通りに行かないのは当たり前で、高耶が描いてきた流れに当てはまらない場合も十分考えられるので安心は出来ない。
とりあえず円滑に話を進めるためには美弥を黙らせておかなければならないだろう。
この兄貴思いの妹は、彼らの仲を父親に認めさせるためにあれこれと援護射撃をしてくれるのだが、如何せんそれが空回りしてしまう場合もあるわけで、まずは話をかき回されないようにしなければいけないのだ。

「直江さん、どーして一緒に来なかったの?」
「あいつにだって仕事があるんだから、無理ばっかり言えないだろうが。それでなくても平日に仕事休ませちまったんだから」
「お兄ちゃんのためだったら、直江さん、喜んでお仕事休んじゃうって」
「バカ言うな。あいつにだって社会的立場っつーもんがだな」
「はいはい。東京行ったらずーっと一緒に居られるんだから、ほんの数週間会えないなんて何でもないんだもんね。やだなぁ、もう。相変わらずアツイんだから♪」
「おまえなぁ・・・」
「お兄ちゃん、頑張って合格したんだもん。お父さんだってきっと納得してくれるよ。美弥だって一生懸命応援してあげるからね」
「・・・その気持ちだけで十分だ」

偽らざる高耶の本音。
当の本人はそれに気付いているのかいないのか。
今日だけは浮かれていても誰も文句は言わないだろうに、高耶は浮かれるどころか父親の説得にため息が出る思いだ。
やがて行きつけのスーパーに到着した仰木兄妹は、お値打ち食材を吟味しながら買い物かごに入れていく。
狙っていた特価のマグロの刺身を、夕方の値引きで更にお得に手に入れた。
本来なら1パックで済ませるのだが、高耶のお祝いと夕方の値引きで奮発して2パックも買ってしまった。
残りはタレに漬け込んでおけば数日は保存しておける。
このお手軽料理は父親がよく作ってくれたものだ。

「美弥たちの受験が終わったら、お兄ちゃんの卒業祝いと合格祝いしようね。直江さんやあきらちゃんも呼んで」
「いーよ、別に」
「お兄ちゃんが東京に行っちゃったら、こーやってミンナで揃ってご飯食べる機会も減っちゃうでしょ。美弥のワガママ聞いてよ。お願いっ」
「うっ・・・」

高耶は美弥の上目遣いのお願い攻撃にめっぽう弱い。
この目で見られると頭ごなしに「ダメだっ」と言えないのだ。
それを知っているからこその行動であり、ほとんど確信犯と言って差し支えはない。
美弥のワガママを聞いてやりたいが、直江と父親を会わせることでまた問題が起きるのではないかという懸念が拭えない。

「今日の親父の反応を見てから・・・だな」
「だーいじょうぶ、大丈夫っ!いざとなったら美弥がガツンと一発」
「頼むから、それだけは止めてくれ。余計に話がややこしくなりそうな気がする」

レジで会計を済ませ、買い物袋を提げて帰路につく。
すっかりと日は落ちてしまい、暗くなった空には星が輝いている。

(よしっ)

心の中で気合をいれ、高耶は父親との話し合いに臨むのであった。










松本へと帰る高耶を見送った後、直江は東京にある会社の事務所で書類整理をし、自宅のある宇都宮に着いたのは午後七時を過ぎた頃だった。
橘家では家族揃っての夕食は済んでおり、直江は一人で食卓のテーブルに座っていた。
四時半ごろに高耶から無事に松本に到着したとの連絡が入り安心をした。
別れるときはいつも寂しさが付きまとうが、来月からは同じ場所に帰ることができると言う嬉しさにしばしの別れは我慢できる。
カレイの煮付けとサラダ、味噌汁でご飯を食べていると廊下をぱたぱたと走る足音が聞こえてきた。
きっとあきらだろう、と直江の予想は大当たり。
すっぱーんと景気良く戸を開けて姪のあきらが飛び込んできた。

「義明兄ちゃん、おめでと〜っ!よかったねぇ」
「美弥さんから連絡があったのか?」
「うん。学校にいるときにメールがあったよ。美弥ちゃんもすっごく喜んでて、あたしまで嬉しくなっちゃった。でも一番嬉しいのは義明兄ちゃんでしょ。これで晴れて美弥ちゃんのお兄さんと同棲できるんだからさ〜」
「同棲って言うな。兄さんに聞かれると何を言われるか判ったもんじゃない」

綺麗な箸使いでご飯を口に運びながら直江があきらを嗜めた。
直江の兄であきらの父親である照弘は、ことあるごとに年の離れた末弟をからかって遊ぶのを生きがいにしている。
橘の家ではあきら以外に高耶との関係はオープンにされていないため、高耶と一緒に暮らすことはあくまで『同居』と言い張っていたのだ。
照弘は彼らの関係に薄々(いや、ばっちり)気付いている節がある。
何も言わないところをみると黙認してくれているのだろう。
だが下手なことを言えばからかわれまくるのは目に見えているだけに、不必要に神経をすり減らすこともないだろうと直江も確信に触れることは黙っていた。

「あのさ、義明兄ちゃん」
「何だ?」
「お父さん、絶対に気付いてると思うよ」
「何が」
「義明兄ちゃんと美弥ちゃんのお兄さんのカンケー」

ポットから急須に自分の分のお茶を入れながらのあきらの言葉。
はあ、と肩を落としながらため息をつく直江。

「だろうな」
「そんなに落ち込まなくたって大丈夫だよ。お父さんってば、そんなに細かいことに拘らないヒトだから」

弟の恋人が十一も年の離れた少年だという事実が「細かいこと」に当てはまるのかは別として、世の中の一般常識にあまりこだわりを見せない大らかな性格の兄に少々不安を覚えるが、頭ごなしに反対されたりしないのは有難いことだ。
しかも姪っ子のあきらにいたっては、驚くこともなくすんなりと事実を受け入れていたのである。
美弥といい、あきらといい、最近の女の子はこだわらない性質なのかもしれない。

「兄さんの性格は熟知してるつもりさ」

ただ、弱みになるようなものを知られたくなかっただけのこと。
高耶が直江のウイークポイントであることはすでに照弘に握られている。
去年の夏、高耶の誕生日の一件も照弘の策略が絡んでいたのだから。

「誰が反対したって、あたしとお父さんは・・・お父さんは多分だと思うけど、義明兄ちゃんの味方だからね。どーんと頼ってちょうだいな」
「気持ちだけありがたく受け取っておくよ」

高耶が美弥に言ったことと同じことを直江も言う。

「そんなことより、おまえ、受験勉強は大丈夫なのか?入試までもう少しなんだろ?」
「息抜き、息抜き。あんまり勉強ばっかりしてると効率悪いもん」
「それもそうだな」
「あ、けーすけちゃんが、わかんないことあったら義明に聞けって。俺より教え方上手だって言ってたけど、現役教師の言うセリフじゃないよね」
「奥村のヤツ、そんなことを言ってたのか。仕方のないヤツだな」

あっけらかんと言ったのだろう奥村を想像して、直江は苦笑いを浮かべる。
皿の上のおかずを綺麗に食べ終え、湯飲みを持ち上げてお茶を喉に流し込む。

「義明兄ちゃんが学校の先生だったら、重箱の隅を楊枝でつつくみたいに細かいところまでテストに出したんだろうね〜。あたし、そんな先生に習うのヤダよ、絶対に」
「おまえ、俺のことをそんなふうに見てたのか?」
「物の例えよ、た・と・え。さーてと、勉強に戻ろうかな。義明兄ちゃんってば、お父さんやお母さんよりウルサイんだもん」
「心配してるんだよ、あきらのことを」
「ふふふー、ありがとね。ヒトの心配より、まず自分の心配しなよ。卒業式が済んだら貰いに行くんでしょ、松本まで?」

今頃松本では高耶が父親に必死の説得をしているのだろう。
卒業式が終わった後で、四年間は大切な息子を預かるのだから挨拶に行く予定ではあった。
あきらの言い方ではまるで嫁に貰いに行くような感じである。
嫁に貰うよりも難しいような気がしないでもないが、高耶と父親の勝負(現役合格したら同居を認める云々)は大学に合格したという点で高耶に軍配があがっている。
売り言葉に買い言葉だったが、父親にも納得してもらった上で東京に出て行きたいという高耶の気持ちも判らないでもない。
母親を亡くしてから男手ひとつで高耶と美弥を育ててきたのだ。
一時期はギクシャクした時期もあったようだが、成長するにつれて少しずつ大人になってきた彼も父親のことを考えるようになった。
直江の両親が彼を慈しんでくれたように、高耶の父親もまた彼らを慈しんできた。
クリスマスには彼らの本気を認めようとしてくれているような言葉も聞いた。
まだ葛藤は残っているだろう。
あれ以来、直江は高耶の父親と話をしていない。

「美弥ちゃんが、あたしたちの受験が終わったら、お祝いのパーティーしようって。美弥ちゃんと美弥ちゃんのお兄さんが合格して、あたしだけ不合格ってシャレにもなんないから、頑張ってくんね。おやすみ〜」
「ああ、おやすみ。無理しないように頑張りなさい」

パタン、と戸を閉めてあきらが食卓を出て行った。
初恋の相手、奥村の結婚を知ってから元気のなかったあきらだったが、この頃は以前の明るさを取り戻しつつあるようだ。
律儀に「ご馳走様でした」と両手を合わせ、食器を洗うために流しへと向かう直江であった。









仰木父が帰宅したのは、高耶たちの予想通り午後七時過ぎ。
買い物をして家に帰った高耶と美弥は揃って夕食の支度をしていた。
美弥の受験が終わるまでは家のことは高耶が受け持つつもりだったが、今日は高耶の大学合格を家族だけで祝うので美弥も手伝うといって聞かない。
あまり勉強勉強と口うるさく言っても逆にプレッシャーを与えかねないので黙っていることにした。

「お帰り、お父さん」

玄関に出迎えに行った美弥の声。
すぐにスリッパの音がして父親と美弥が台所に入ってきた。

「お帰り」
「ただいま」

合格の件は電話で伝えていたので、簡単な挨拶を交わすだけで会話が終わってしまう。
手を洗ってテーブルに着いた父親に美弥が何を飲むのか聞いている。
夏はビールを好み、冬には熱燗を飲む。
それは母親が生きていた頃となんら変わりのない習慣だ。
美弥が日本酒を温めている間に、醤油とみりんに漬け込んであったマグロの刺身を冷蔵庫から取り出す。
まずは自分の分と美弥の分のご飯をよそい、等分にしたマグロの刺身を湯気の立つ白いご飯の上に添えた。

「親父は酒飲んでからでいいよな?」
「いや。そのままつまみに食べるから皿に移してくれ」
「わかった」

食器棚から小皿を取り出して父親の分のマグロを乗せる。
父親の前に皿を置いてやると、熱燗の入ったコップを美弥が運んできた。
高耶と美弥も定位置に座り「いただきます」と手を合わせた。

「発表見に行くとき、緊張した?」
「そりゃ、一応な」
「うわー、美弥も緊張するだろうなぁ。怖くて見に行けないかも」
「そん時はオレが代わりに見に行ってやるから安心しろ」
「え、やだやだ。自分の目で一番先に確かめるんだもん」

言っていることが滅茶苦茶だ。
マグロ丼を口に運びながら、高耶は合格発表直前の自分を思い出していた。
一緒に行きましょうか、と言ってくれた直江の申し出を断って一人歩き出した瞬間の、まるで死刑台に登る囚人のような気分は何と言って形容したらいいのかわからない。
ただ直江が傍に居て、優しく背中を押してくれたから歩き出すことができたんだと思う。

(直江が傍に居てくれたから)

そうでなければ、こんなに死に物狂いで頑張れなかったかもしれない。
合格はもちろんだが、直江と一緒に暮らしたい気持ちが受験勉強への原動力となった。
ひとりじゃないんだと、支えてくれたあの存在に今でも感謝している。
どれだけ感謝しても足りないくらいに。

「お父さん、ご飯よそってもいい?」
「ああ、頼むよ」

美弥と父親の会話に高耶が我に返る。
どうやら合格を伝えた後に直江が優しく抱き締めてくれた感触を思い出し、ご飯を食べながら別世界にトリップしていたようだ。
今日は父親に直江との同居を納得させるんだと決意してきたことを、すっかりと忘れてしまうところだった。

「親父、オレ、東京行くから」
「ああ」
「大学通う四年間は、直江の部屋に居候させてもらうからな」
「好きにしなさい」
「親父が反対しても・・・って、はあ?」

こんなにあっさりと承諾してくれるとは思っていなかった。
思わず素っ頓狂な声をあげてしまった高耶に、父親は噛み砕いていたご飯を飲み込んでもう一度言う。

「好きにしなさい、と言ったんだ」
「い、いいのか?」
「父さんが反対しても聞くつもりはないんだろう?おまえが大学に合格したことで、おまえたちの本気は十分に見せてもらった。約束は約束だ。おまえたちの仲を認めるかどうかは別として、四年間はあの男の部屋に居候でもなんでもして勉強を頑張りなさい」
「う、あ、はい」

呆気にとられた形で高耶は頷いた。
そこへ美弥の横槍が入る。

「もう、お父さんってば!この期に及んでまだお兄ちゃんと直江さんの仲を認めようとしないの?何のためにお兄ちゃんが死ぬ気で勉強して現役で合格したと思ってんのよ。直江さんと一緒に居たいからに決まってんじゃん!」
「わー、美弥っ!おまえは黙ってろっ!!」

慌てて美弥の口を塞ぐ。
これ以上かき回されてはせっかく同居に同意してくれたのが不意になりかねない。
だが父親は美弥の言葉に耳を貸すつもりはないらしく、

「卒業式は何時からだった?」
「十時から式が始まるけど」
「間に合うように学校に行くからな」

どうやら父親は仕事を抜け出して卒業式に出席するつもりらしい。
義務教育の中学校と違って、高校の卒業式に父兄が出席することはほとんどなかった。
一応体育館の後部に父兄用の椅子が並べられているが、そこに座っている父兄は少なかった。

「え、いいよ、来なくても」
「息子の晴れ姿を見なくてどうする。母さんが生きてたら、きっと最前列に陣取っておまえの卒業を喜んでるぞ」

確かに母・佐和子は子供の学校行事への参加を欠かしたことがなかった。
授業参観も運動会も、必ず見に来ていて高耶たちに手を振ってくれたのだ。
彼らの成長を記したアルバムも数え切れないくらい押入れに眠っている。
そんな母親だからこそ、生きていれば高耶の卒業を誰よりも喜んだのではないだろうか。
父親の胸の中にはそんな思いがあるのだろう。

「わかったよ。そのかわり、最前列で居眠りなんかしやがったらソッコー追い出すかんな」
「心配するな。そんなマネはせんよ、多分」

最後に小さく呟いた「多分」という言葉に多少の引っ掛かりを覚える。
その後夕食はお開きになり、父親は風呂へ、美弥は洗物を終えて自分の部屋へと戻って行った。
あまりにも素直に直江との同居を認めてくれた父親に、少しばかり「何をたくらんでやがる、あの親父」と思ったのも事実で、だが突っ込んで訊ねて墓穴を掘るのもいただけない。
居間のこたつに入り、何の目的もなくテレビのスイッチを入れる。
次々にチャンネルを替えてみるが見たい番組があるわけでもなく、結局はテレビのスイッチを切ってポケットに入れていた携帯電話を取り出した。
気付かなかったが直江からメールが入っていた。
無事に松本へ着きましたか?と訊ねる内容に始まり、直江も仕事を終えて宇都宮の自宅に戻ったこと、思ったより冷え込んで今夜は雪がちらつくかもしれないと書かれていた。
美弥ほどではないが、この数ヶ月でずいぶんと操作に慣れた手つきで返信を始める。
無事に帰宅したこと、父親が直江との同居を認めてくれたことを言葉は少ないが伝えた。
壁の時計が八時半を知らせる音を鳴らす。
風呂から上がった父親が居間に入ってきてこたつに入り、テレビのリモコンを手にしてスイッチを入れる。
高耶と同じように次々にチャンネルを替えていき、気に入った番組がなかったのかバラエティ番組でチャンネルを替えるのを止めた。

「風呂、空いたぞ」
「ああ」

父親と二人きりで何かを話すのも気恥ずかしく、高耶はそそくさと風呂に入るために居間を出て行った。
廊下に出たところで立ち止まり、居間に居る父親を振り返った。

「なあ、親父」
「何だ?」
「・・・いや、何でもねぇ。風呂入ってくる」

身体を洗い、熱い湯船にとっぷりと身体を沈める。
一人で悶々と考えていても埒があかないのはわかっている。

「あんなにアッサリと直江との同居、認めてくれるとは思わなかったからなぁ」

何か裏があるかも、と勘繰ってしまう自分が悲しい。
父親も認めてくれたのだから堂々と家を出て行けるのに、何をこんなに悩む必要があるのだろうか。
直江との同居は認めてくれても、直江を好きでいることは認められない。
この先何があっても、これだけは平行線を辿ってしまうのかもしれない。
そう考えると素直に喜べない自分がいた。

「どーしても、譲れねぇんだよ、あいつのことだけは」

天井に昇った水蒸気の雫がぽつりと高耶の額に落ちてきた。

「おふくろが生きてたら・・・オレたちのこと、何て言っただろうな」

父親のように頭から反対したのか。
それとも美弥のようにすんなりと事実を受け入れ応援してくれたのか。

「それでも、オレ、直江のことが好きなんだよな」

誰にも譲れないほど強く。
誰かを不幸にしても別れられないくらいに。









考え事をしていたせいで、いつもより長風呂になってしまった。
高耶が風呂場から出ると居間はすでに真っ暗で、父親は寝てしまったようである。
美弥の部屋の襖をぽんぽんと叩き、

「おい、風呂空いたぞ」
「はーい」
「・・・美弥、入ってもいいか?」
「んー、いいよ」

殺風景な高耶の部屋と違い、美弥の部屋は女の子らしいディスプレイで飾られている。
机の上に、あのクリスマスのときに千秋が高耶にくれたヌイグルミが置いてあるのが気に食わない。
もちろんツボの中身はすぐに始末したのだが、ヌイグルミだけは捨てちゃダメだと美弥に強引に奪われたのだ。

「どうしたの?」

机の上には受験勉強用の問題集が広げられている。
だけどそれは進んだ様子はなく、美弥も何か考え事をしていたのだと窺えた。

「あのさ、親父のヤツ、なんか変じゃねぇ?」
「そう?いつもとかわんないと思ったけど」
「どこが変っつーか、あんなに簡単に同居オッケーしてくれると思わなかったからなぁ。何か悪いモンでも食ったんじゃねーかって」
「いくらお父さんだって、拾い食いはしてないと思うよ」
「あの歳で拾い食いかよ」
「冗談、冗談。だって約束は約束だもん。守らなかったら男の沽券に関わるじゃん」

男の沽券とはまた古風な言い回しをしてくれる。
果たして意味がわかっているかどうかは疑問だが。

「変じゃなかったらいいんだ。勉強の邪魔して悪かったな。おやすみ」
「いいよ、気にしないで。あたしたちの受験が終わったら、あきらちゃんたちとお祝いしようね。メール送ったら楽しみにしてるって言ってた。あきらちゃんも最後の追い込み、頑張ってるって。あたしも負けてられないな」
「そっか。無理すんなよ」

結局悩みは解決しないまま、高耶は自分の部屋に戻って布団の上に寝転がった。
この部屋で寝起きするのもあと僅か。
そう考えると少しばかりセンチメンタルな気分になってくる。
永遠に帰ってこないわけでもないのに、気分はまるで遠くへ嫁に行くみたいだ。

「あーもう、こんちくしょうっ」

何度も寝返りをうっているうちに、やがてうとうとと眠りの世界に引き込まれていく。
夢の中でメールの着信を聞いたような気がした。











続く(後)
仰木家シリーズ8(中)  著・なぎ(蜃気楼の館

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