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沈む夕陽

第二章 怨敵


「……――うう……」
 
 明け方まで飲んだ二人もさすがに一睡もしないでは今日に堪える。一応仮眠をとったが、露ほどの効果しか持たなかったようだ。そして、起きるや否や――案の定。
 
「何をもたもたしてる?」
 
 景虎がさっそうと前を行く。
 あいつはうわばみでも飲んでいたのか――? いやそんなはずはない。
 同じ量の酒を飲んだはずだ
 
(……――なのに――――……)
 
 飲んでいた時は互角でがんがんと飲んだ。しかし、飲む速度が尋常ではなかったからか、酔いが回らないうちにお開きになったからか。
 今となってただ一つ言えることは、
 長秀の肉体より景虎の肉体の方が「頑丈」らしいことだけだろう。
 むかつく胸を押さえて長秀は気どられないように姿勢を正した。
 こうなれば意地だ。
 無闇やたらに景虎が酒を飲まないから気付かなかっただけで晴家の初換生の宿体を凌ぐほどかもしれない。
 
(…………)
 
 微妙な驚異を抱きつつ、長秀は根性で景虎の後を追う。
 肉体の優劣――こればっかりは宿体の個人差が大きい。どうにかなるものでもない。
 ならばこの状況を脱する秘策は、精神力だけだ!
 景虎なんかに気取られてたまるものか、と気合いを入れて彼を睨み付けると――、
 景虎は大仰にこけた。左足が石ころを見事踏みつけたのだ。
 それも受け身も取れず横殴りに倒れる。
 
「おいおい。大丈夫かよ」
「……ッ痛」
「怪我は弱点になるって身をもって解ってんだろ。下手な転び方をするな」
「ああ。どうやらまだ酔いが醒めてないらしいな」
「…………」
 
(酔っていないと思いきや、相当酔っていると――?)
 
 そうなのか。
 本当にそうなのか――?
 何かが引っかかる。
 単に顔色に出ないだけで酔っているならそれでいい。
 ――そうでなければ……。
 長秀は頭を振り、不安を散らした。
 根拠もなく想定するのはいかなる時も殆んど良い結果に結びつかない。
 
「おい、景虎。引き返すか?」
「いや、行く。でなければ、どうにもあれをオレ一人では抑えきれぬ」
 
 景虎でも無理なら、お手上げだってことを当人は判ってるのだろうか。
 
「ちっ、仕方ないな」
 
 長秀は着物の袖身頃を破りだす。慌てたのは景虎だ。
 
「おい、止めないか。衣が……」
「ああ? うるせぇ。静かにしてやがれ」
 
 長秀は薬師如来の真言を唱えて、懐からなにか灰のようなものを取り出して己の千切った衣になすりつけた。
 しかし、まだ呪法は終わっていなく、真言を唱え続けて、景虎に目線と指の動きだけで、腕を出せと合図を送る。出された傷口にきつく衣を巻くと不動明王の真言を唱えた。
 
「これで良し」
 
 長秀はふんと鼻息荒らくふんぞり返って、
 
「その灰は薬師寺の薬師如来から出た御垢だ。傷に効くはずだ。治癒するまで傷口を守る。そんじょそこらの怨霊は近付けないはずだ」
 
 一年に一度寺院で行われるお身拭い(仏像を綺麗にお掃除する)という行事の時に仏像から出る埃を世間では仏様の御垢と呼び、世間一般に有り難がられる貴重な代物だ。
 
「……。……かたじけない」
「いいってことよ。おまえがやばくなったら、困るのは俺だからな。礼には及ばん」
 
 景虎に治療をしてやるなど、百年前では考えられない所業だった。それもこれも百年になる経験の結果だ。
 
「さて、早いところ片付けて、戻らないとお千代が待ちくたびれちまう」
 
 不敵に前だけを見据える長秀。立ち上がる景虎。
 景虎は気付かれぬように口許だけで笑んだ。
 長秀がこうだからこそ直江ではなく色部でもなく、安田長秀をここに呼んだのだ。それを確かめるために彼を呼びつけた。
 
「そうだな。お千代が待ってる。行くか、しかし勘違いするなよ。今日は様子見だ」
 
 あの力ある瞳が長秀を見据える。
 それでこそ長秀が認めた好敵手だ。
 長秀は鼻で笑った。
 
「ふん。なんでもいいから早く行こうぜ。大将」
 
      ※
 
「…………」
 
 長秀の開いた口は塞がらない。
 目的の場所に到着して見たものは――。
 
「さすがに一人では抑え切れなくなってな」
「一人、で、抑えてたのか……」
 
 凝然と驚くばかりで……。
 ……言うまでもないが、
 
「こりゃ夜叉衆勢揃いしても…」
「しかし、やれる者がいないのだから仕方がない」
「色部のとっつぁんは?」
「今、盛岡だ。さすがに間に合わない」
「晴家は?」
「胎児換生して三歳児だ」
「…………」
 
 直江信綱は訊くまでもなく――……。
 眼前に広がるは得てして得たいの知れない怨念? それとも霊? の塊? が、ある。
 つまるところ、怨霊もいれば生き霊もいる。付裏神になる寸前の強烈な怨念や念の塊から狐蠱などの霊的妖かしまで存在している。
 余りに力場の悪さに鼻を摘みたくなる気分を抑えて、長秀は霊視していた。
 
「…………」
 
 けれど――……鼻を摘む騒ぎではない。
 その力場の悪さの上にそれらは融合も遂げている。それも質が悪いことにどろりどろりと粘着したというのが表現が正しいか。どうにも複合合体なんて容易な言い方はできない状態だろう。滅茶苦茶な事態になっている。
 事の深刻さを察してきた長秀を尻目に景虎は短く声をかける。
 
「…………行くぞ」
「行く、って様子見だと……」
「だから、様子見に行くのではないか」
 
 何を言っているんだ? と目を細めてくる。
 
(これが全部でない、だと――?)
 
 長秀は戻りくる生唾を飲み下し、いつでも対処できるよう《力》を蓄えかけた時――。
 
「!?」
 
 すると、不意にすーと色を失うように闇に視界が閉ざされて――……、
 
「長秀」
 
 景虎は振り返らない。
 
「私に霊波同調しろ」
「!?」
 
 ふっと景虎と長秀の視界が繋がる。
 
(――……こりゃ一体どういうことだ?)
 
 景虎と長秀は霊波同調により阿吽の呼吸ほどに感情を読み取れた。二人共が相当の《力》と技を持ち合わせていて初めてなせる芸当。その微妙な長秀の波長の揺れを感知して景虎は思念波を送った。
 
《妖かしの仕業だ。この力場では最も頼っている五感のどれかが欠ける》
 
 そう言われると常日頃人間とは確に視力に頼って生きてるところが大きい。
 でも、おかしいではないか。何故景虎は視えるのか。
 まさか――、
 
《それじゃ――……、おまえ――》
《先を急ぐ。ついて参れ》
 
 景虎は長秀に二の句を継がせなかった。
 そして、着いた場所で待っていたのは――。
 
《昨日より力を増してるな……》
 
 景虎の厳しい思念波が伝わってくる。日に日に悪化してることは長秀にも容易に知れた。
 
《これは……》
 
 違いない。親玉となっているのは怨霊ではなく――、
 
《――生き霊……?》
《兎にも角にもまずは鎮める。話はその後だ》
 
 大日如来の護符を地面に置き、懐から独鈷金剛杵を取り出す。鎮霊法を開始。そうして徐に金剛合掌をすると、朗麗とした景虎の読経が始まる。長秀も景虎の光明真言の旋律に合わせて般若心経をのせる。
 二人の奏でる経は妖しの場から真言密教の世界を作りあげていく。
 目の前にある巨大な御霊に仏の慈悲を、想いを伝えようと……、
 
「…………ッ!?」
 
 一瞬だった。同調が切れた。すぐに回復したが……。合わせられなくなったのは長秀の方ではなく、景虎の方だ。何かが彼に起きた。
 ばっと顔を上げてその五感の視角で彼を見る。妖かしの力場が切れたか目は見えた。
 苦悶した表情をしていた。周囲の怨霊、生き霊問わず景虎一人に敵意を差し向けている。 しかし、彼は確固たる意思で主旋律を唱え続けている。その表情を見なければ、彼がどういう事態に陥ってるか悟ることはなかっただろう。
 景虎の首筋に脂汗が流れる。
 
(――馬鹿がッ。……一人で抱え込みやがって)
 
 無論、景虎が助けを求めてこなければ、手を貸す気など長秀にはない。
 
「…………」
 
 自分にできることは唯一つ――。
 長秀は静かに瞳を閉じて、読経に集中しだした。
 必死に形相で耐える景虎に手を差しのべることなどできない。もしそうしたならば、彼はその手を叩き返すに違いない。彼は誇りにかけて、それを望まないだろう。
 それが上杉景虎だ。
 上杉景虎は、やると言ったらやる――そういう男なのだ。
 心配はない。
 それに、その高き誇りを傷付けるような真似をする程、安田長秀も安直ではない。
 好敵手と認めたからこその信頼。そして予想を裏切らない彼。それを上回って余りある成果で応えてくる。
 長秀は黙々とこなす。
 景虎を越えるには、自分に課された役目を果たしそれ以上の成果を納めることだ。
 読経が最高潮を向かえる。景虎が持つ独鈷を金色にほんのりと発行し出す。それを護符に向けると、護符はまるで羽根のようにゆらりと浮き上がる。
 護符の梵字が光る。
 穏やかな浄光が降り注がれ、鎮まり消えていくはずなのだが――……。
 二人の読経は、終了した。
 静けさに瞼を持ち上げてみる。視界は良好だ。
 景虎は背で息をしている。長秀は徐に立ち上がる彼の二の腕をとった。
 
「これでお終いじゃないよな?」
 
 護符から発せられた浄光は御霊にとって一種の催眠薬になる。だが、しかし――……、目の前の生き霊は眠るどころではない。何とか半覚醒状態にあるだけだ。
 
「――ああ……」
 
 力の入った二の腕から力が抜けていく。長秀の腕に支えられたことに文句を言わず景虎はただ領いた。
 失態を見せたくない景虎の誇りを承知である長秀らしいやり方だ。
 
「今まではなんとか催眠効果を発揮していたが、今回は無理だったようだ。長秀。この場の結界と霊たちに暗示をかけられるか?」
 
「誰に訊いてる」
 できない訳がない。暗示に掛けては夜叉衆の中で抜きんでている長秀だ。
 長秀の不敵さに満足気に笑む景虎は静かに瞼を下げた。
 
「そうだな。それでは頼む」
「あたぼーよ」
 
 四天王を封じ込めた木端神を軽く投げて、掴む。
 ここからが長秀様の本領発揮だ。
 

続 第三章 怨恨


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