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沈む夕陽

第五章 決断


 鳥の囀り。差し込む日光は障子の桟に当たり影を作る。
 六畳の部屋の中央、敷かれた寝具の上に景虎は寝かされていた。
 あれから、まる二日。
 景虎はまだ目覚めない。
 庵の、薫る炭火。
 黒々とした木炭もいつしか脆く崩れる白灰になる。
「長秀様」

 名前を呼ばれて長秀は仰ぎ見た。
 この家の主、弥作の家内――波揶だ。
「私がこちらにいますからどうぞ気晴らしをしてきてくださいな」
「…………」
 この良くできた女性が自分たちのことをどれだけ知っているのだろうか。
 長秀は真顔を崩した。
「いや、あんたこそ楽にしててくれ。俺は好きでここにいる」
 すると、波揶はくすりと笑う。
 長秀の顔に何がおかしい? と書いてあったのか、
「いえ」
 と言い、慎ましく微笑んだ。
「さすが三郎次様のお連れ様かと」
「けッ、腐れ縁だよ」
「そうですか」
 波揶は笑いたそうに相槌を打つ。ここに来て景虎が見せる表情と同じだ。一体全体何だと言うのだ。
「あいつが迷惑を掛けてくる。それだけのことだ」
 だから、ここにいる。そう。それだけのことだ。
「そうですか」
 しかし波揶は――、堪えきれずくすくす笑い出した。
「…………」
「いえ、なんでもないんです」
 なんでもなくはないだろう。その態度は。
 波揶は艶しい仕草で裾を整えて長秀の方に正座し直した。
「仲間を大切にされる良き方かと」
「腐れ縁だと――」
「それならそれで、良いのです」
「…………ッ」
「あなた様は自分に正直な方で、縁を――お仲間を大切にする人ですから」
 確かに自分は正直者だ。認めよう。夜叉衆の誰よりも好き勝手にやってきた。しかし縁を大切にする人間と言われたことは一度も、ない。
「だから――」
「それでも良いのです」
 波揶は長秀の言葉を聞かずとも解るらしい。
「あなた様はあなた様のままで彼の方の元にいれば良いのです」
 彼女はその人柄そのままに、暖かい眼差しを長秀に向ける。
「三郎次様はあなた様が思っている以上にあなた様を信頼してますよ」
「…………」
 なんて言って返せばいいやら……。
「――――……」
 長秀は――……。
「……お千代はどうした?」

 突然、立ち上がってきょろきょろと辺りを見回した。今までの会話がなかったように長秀は何喰わぬ顔をして尋ねてくる。
 流れが掴めない波揶だが、やがて微笑んだ。
「いつもの遊び場へ」
「行ってくる」
「行ってらしゃいませ」
 波揶は深々とお辞儀した。

      ※
 
 かさり
 襖を開ける音がする。静けさの中に音が生まれて、景虎はようやく意識を取り戻した。
 長い睫を揺らし、うっすらと瞼を持ち上げた。
「……こ、こは――……?」
「お気付きになられましたか?」
 どこかで聞いた台詞に小さく心臓が跳ねて声の主を見る。
「――――……」
 弥作の妻――波揶だ。
 けれど、景虎の目にはうっすらとぼやけて人影が見えるにすぎない。
 記憶が蘇る。
 そうして景虎は感情乏しく口端をつり上げて、両の眼を右手の甲で覆った。
 ――とうとう時が来たらしい。
 思ったことはそれだけだ。
 彼女は景虎がその瞳のせいで道に迷っているのを助けた人物だ。当然、景虎の置かれた状況を熟知している。
「お医者様をお呼びいたしますね。何か欲しいものがありますか?」
「――水を、くれまいか。それと――……」
 景虎はしばし逡巡して、
「医者はいらない。代わりに筆と紙を頂けぬか」
「――でも」
「心配はいらない。私は大丈夫だ」
 波揶は景虎の眼が非常に悪いのを知っている。
 景虎は心配無用とばかりに彼女へ微笑してみせた。
「全ての光は失っておらぬよ。大丈夫」
「……そうですか。それじゃ――」
 波揶が立ち上がる。
 彼女は無理強いをしない。彼が情の強い人だと知っている。彼女程度の換言など聞かないこともだ。
「…………」
 一人になり、景虎は大きく深呼吸した。
 もともと判っていたのだ。視力を失う日がくることを。
 それが早まったに過ぎない。
 もともと今回の件を片付けると決めた時点で、視力の余命を著しく削ることを覚悟していた。そして、あれだけの激闘の末に結界調伏法を行い全部の視力を失わなかったのだから、良しとしなければならないだろう。
 しかし、最早……。
 ――……戦線に立つことは難しい。
 ……それも承知での今回の件であり――決断だった。
 景虎は天井を見つめる。
 色部勝長にも身体への負担が大きい故、極力結界調伏法はやるなと注意されていた。
 ……――領きもしたが、
 ――……勝長もそれを鵜呑みに信じはしなかっただろう。
 勝ちに行く為に景虎が自らの身体を返りみず行うことを勝長は知っている。
 手を投げやって景虎は深呼吸した。
 病状が悪化していることを口止めたのは景虎自身だ。指揮に関わるからと。
「――――……」
 ――勝長殿。時期が来たら己自ら戦線を退く。その時は後のこと宜しく頼みまする。
 そう告げると、色部は少し間を置いて
 ――景虎殿。心配致すな。幸いそなたの尽力で組織も形を成した。この修理進、……その時が来たならば、引き受けましょうぞ。
(――――……)
 景虎は静かに瞑黙した。勝長に告げた時のように――。
 その時がきたらしい。
 襖が開かれる音。
 景虎は起き上がり姿勢を正す。
 波揶が盆を持って入ってくる。その上には土瓶と湯飲み、硯箱が乗っていた。

      ※

 ――陽は傾く。
 景虎は筆を置き、硯箱の蓋を閉じた。夕日が望める縁側に出て目を凝らす。光の少ないこの時間では殆んどが闇である。
 認めた書状を懐に納めて、男の帰りを待つ。
 縁側の柱に身を任せて清涼に身を委ねる。澄ます耳には虫の音が届く。
 季節は夏の皐月にここへ訪れた。今宵は満月、中秋の名月――。
 鈴虫の鳴き声に甲高い笑い声が混じる。
 お千代の声だ。
 一緒にある低い声音――長秀も一緒らしい。
 見えない眼を細め、景虎は慈しむ微笑を浮かべた。
 襖が開けられる。波揶とは違う荒々しい音。
 振り向かなくたって分かる。
 ――安田長秀だ。
「やっと起きたか」
「ああ」
 景虎は振り向かない。
「身体のほうは平気か?」
「心配ない」
「地天を呼んでおいた」
 地天があの地気の処理をしてくれるだろう。
「済まなかったな」
 倒れたりして――、
「いや」
 もともと景虎と長秀では負担の割合が違う。それに長秀に言わせれば、倒れる程まで全力を尽くすほうが馬鹿なのである。だが、そうだからこそ景虎なのだろうが。
「…………」
 暫く二人はどちらも口を開かなかった。
「俺に話があるんじゃないか」
「…………」
 景虎はくいっと顔を上げた。正確に長秀の顔を捉えている。
「――――」
 本当に見えてないのだろうか。長秀自身薄々は感付いていたが――。
 波揶から話は聞いた。景虎の双眸は殆んど見えていないという。
「……眼のことか」
「…………」
「大事ない」
 嘘吐き。
「今回、おまえを呼んだのは他でもない」
 たとえ今回のことがなくとも景虎はこの場に長秀を呼ぶ気であった。
「勝長殿に渡してくれぬか」
 長秀に真っ直ぐ向き直り、懐から一通の書状を取り出し軽く板の間の上を滑らす。
「…………」
 その書状が何であるか、長秀も察しはついている。
 眼が見えないとなれば、旅は無理だ。
 夜叉衆が扱う問題は何も死人のことばかりではない。
 そうなれば、景虎の取るべき道は一つ。
「とっつぁんは知っているのか?」
「ああ」
「これからどうするつもりだ」
 景虎は答えない。
「宿体を換える気は?」
「まさか」
 眉を跳ね上げてきつく睨み返されてしまった。
「山に隠ろうかと考えている」
「宛てはあるのか?」
「知り合いの山寺がある」
「そうか、それならいい。渡すものはこれだけか? 他に誰かに伝言は……」
「ない。後は勝長殿と軒猿に任せる。それで十分だろう」
 もう算段はついてるらしい。
 それならば、長秀の口を出す問題ではないだろう。
「なぁ。どのくらい見えないんだ?」
「別段変わりない。普通の生活には困らぬ」
「…………」
 景虎がそう断言するなら、そう言うことにしておいてやろう。
「そうか。それなら俺は明日立つぜ」
「相分かった。達者でな」
 薄情な物言いだ。長秀は鼻を鳴らしてそれに応えた。
「景虎そろそろ食事だ。もう平気なんだろ?」
「ああ。待たせるのは悪いな。行こう」
「お千代が待ってるぜ」
「そうか」
 景虎の押し隠しながらも喜々とした声――何気無い会話、何気無い仕草。いつもと変わりない。本当に見えないのか少々疑問な節はあるが、
 そうならば――。
 ――景虎で遊ばない手はないだろう。
 そこで――、長秀が思いついたのは――……。
 ちらりと景虎を見て、長秀は意地の悪い笑みを浮かべた。

      ※

「長秀ー!!」
「あん?」
「いい加減にしろ!! 『あん?』ではない『あん?』では!! 私が見てないとでも思ってるのか!?」
 景虎は『見えてない』ではなく『見てない』と言う。
 疑わしく長秀は景虎に視線をやってから、伸ばした箸に煮物を発止と捕らえ口の中に運ぶ。
「いいじゃないか。おかずの一つや二つ」
「一つや二つじゃないだろう!?」
「けちだな〜。大将は」
「前々から思っていたが、お前は行儀作法がなってない!! それでも武士か!!」
 我を忘れて怒り始める景虎。
 馬の耳に念仏の長秀。
「今更武士じゃないし」
「心根の問題を言っているのだ!!」
 とうに列席の弥作や波揶のことを忘れて景虎はがなり続ける。
 というか、長秀が慇懃無礼でも武士の矜持に沿った態度を為していたのはせいぜい二つ目の宿体までだった。
 景虎に言わせれば、それからの長秀はやりたい放題過ぎる! らしい。
 ――というより、現世に一番順応したのが長秀なのである。
「てか、お前、見えてないんじゃないか?」
「馬鹿にするな!!」
「わーかった。わかった。それじゃ、俺のこれやる」
 長秀は素知らぬ顔をして、小鉢を景虎の前に適当に置いた。
 暗がりでは見えない景虎である。驚異的な第六感で長秀の所業を見抜く彼であっても、その鉢の在処は分からないらしい。固まってしまっている。
「…………」
「……どうした。食べろよ。毒なんて入ってないぜ」
「うるさい!!」
 長秀がせせら笑っているのが分かるのか、景虎はきっと睨み返してくる。
「…………」
 毅然と姿勢を正し、少し標的を見つめてから勢いよく狙い定める。箸をつき出した。
 おー…。
 見るもの皆が驚嘆する。
 長秀も内心感嘆の声を上げた。
 見事標的に突き刺さっている。
 恐るべき景虎の第六感。
 しかし、長秀はそんなことどうでも良かった。景虎をからかえるのが楽しい。
「へぇ。これもやる」
「…………」
 景虎も段々と自分の置かれた状況が解ってきた。されど挑戦されて黙っているような景虎でもない。
 精神統一をはかって――。
 いざ――!
「あ、悪い。傾いちまったな」
 どすっ
 長秀は言うや否や、さっと器の位置を見た目麗しい配置に置き換えた。
「…………。――長秀ぇ……」
「何だよ?」
 長秀は悪びれることなく応じる。
「…………」
 景虎は喉から出かかった言葉を飲み込んだ。仮にも親切に配置を換えたならば、怒る場面ではない。これぐらいで怒っていたら安田長秀となんて付き合ってられない。
 再度姿勢を正して大きく息を吸い込んだ。そうして景虎は平静さを取り戻す。
 ……が、
 ――しかし、
「…………」
 始めに長秀が寄越した小鉢を啄んだ。
 はて?
 中身は空である。
 確かに先までは箸から伝わる感触では後一つ二つ鱈子の煮付けが入っていたはずだ。
「…………」
 次に南瓜の煮付けを持った器へと箸をやると――。
「…………」
 豆の感触がした。食べても無論、豆だ。
 はて? 豆だったか?
「…………」
 他の器も突いてみたが……。
「――……ッ」
 空の器を除き全部で四つ。
 全て豆だ!
 ……そして、突く器も全て同じ。
「どうした。南瓜は右端だぜ」
 かたかたと器一同が震える。次に待っていたのは――、
 大いなる地響きと、
「長秀ぇぇえ!! てめぇえ!」
 景虎の怒号。
 行儀作法も何もあったものじゃない。
 家屋の大黒柱自体が揺れている。梁から微妙に煤がはらりと落下。
 眼がよろしくない分鋭敏になった第六感が我を忘れた景虎の感情と連動して心霊現象を起こしているのだ。
「人が大人しくしていれば! 何様だ!」
 景虎がすっくと立ち上がったと同時にぎしりと家屋が歪む。
 長秀はむんずと景虎に襟を掴まれた。
「いい加減にしやがれぇえ!!」
「馬鹿言ってんじゃねー。見えるって言ったのはお前だろ」
「なんだと!!」
「見えてんだったら、あれぐらいのことで引っかかるな!」
「――――ッ!」
「見えないなら、見えないなりの態度しやがれっての」
 まったくその通りで……、鼻であしらわれた景虎はわなわなと震えている。それそのままに家も軋む。
「見えないから、とってください、ぐらい言えよ。捜し物はこれだな」
「…………」
 一つ器を景虎の眼前に突き出した。
「……最も――……、喰っちったけど」
「長秀ぇぇえ!」
「なんだ。景虎」
 挑戦的な物言いの長秀。
「こ、の、馬、鹿やろーぉ!!」
「ははーん。やる気か? 受けて立つぜ」
 またも雷のごとくつんざく落音と共に家が揺れる。
「本当にお二人は仲がお宜しいですこと」
 今にも殴りつけんとばかりに振り上げた景虎の拳がピクリと硬直する。
 傍から長秀と景虎のやり取りを見守る弥作と波揶は心霊現象が起きても彼らが強い霊感をもち合わせていることを知っているので動じない。逆にそのやり取りを微笑ましく見守っている。
「……――波揶さん……」
 眉をハの字に下げた長秀が心底嫌そうな顔して波揶を見た。
「そりゃないぜ……、俺とコイツが仲がいいだと?」
「…………」
 彼女はにっこりと微笑む。
「まるでじゃれ合う仔猫のようです」
「………………」
 これには長秀と景虎――共に言葉なくして脱力してしまった。
 ――……おいおい、こんな奴と仲がいいなんて……。
 ちらりと景虎を見て嘆息する。
(たくッ、単なる腐れ縁だよ! そうに決まってる!)
 と強く思う長秀であった。
 もう一度ちらりと横目で景虎を伺うと硬直したままでいる。何を考えているのやら、やけに複雑な表情をしていた。

続 終章 顧念


   or  第四章

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